今、10億円、天から降ってきたら・・

今、10億円、天から降ってきたら・・

とりあえず、仕事に区切りを付けて、好きなような生き方に切り替えるね

ホテルはあまり好きじゃないので、レントハウスを借りて、

そこに1月くらいは住みたいんです。

国内では、夏場に北海道、冬場には沖縄。

京都と広島には家を借りて、季節の良い時に一月くらいは住んでいたい。

お会いしたい人にもゆっくりお会いできるし。

海外にも一月単位で移り住みたい。

ノルウェーは寒そうだから、1週間くらいで切り上げて、

アムステルダム、パリ、南仏、バレンシア、イタリアの何処か・・

散歩してると楽しかったし

ギリシャやイスタンブールに行きたいけど、

紛争地と近いので、落ち着かないからね、

だからといって、スイスとかベルギーとか、

整備された治安の良いところはすぐ飽きそうだし・・

ニューヨークにも住んでみたい、裏通り歩き回ったら面白そうだし

ロスも楽しそう、アナハイムで大谷の野球観たり、

スぺイン系の人たちも多く、そこそこ治安も悪そうだから、

退屈しないような気がする。

メキシコやキューバにも行ってみたい、街路でもいい写真撮れそうだし、

南米でも暮らしてみたい・・

アフリカは大野真司さんに任せるとして、

日本に居るのは1年のうちの花粉の飛ばない秋くらいにしとこう。

Be tied : 目隠しをしながらの撮影

アート感覚を有する人たち

私はアルコールが飲めない。 好きなのだが、体がアルコールを分解できないので、ワイングラス一杯で3日間は動悸は続く。 だから、飲みたいのだが飲めないのだ。 アルコールが飲めたら、人生、2倍は楽しめたと思う。 飲めたら、止まらないので、今、この世の人でないかもしれないが・・。 

こうして写真を載せてみるが、物理的データとしては誰にでも同様に見えているはず。 ところが、情緒を通して観ているのと、そうではないのとでは、月とすっぽんほどの違いがある。 視覚アートに関する情緒というものは、ある一定の人たちだけにしか持ち合わせないような気がする。 程度の差もあるのだろうが、殆どない者から、かなり豊かな者までいることは事実である。 

文字に変換して世界観を語る「文学」は別にして、音楽と視覚アートに関して普段から思うことを率直に書いてみる・・ YouTubeを見ていると、テレビや新聞などでは得られない情報や知識が得られる。 ホリエモンに関しては、社会的・経済的視点が斬新で感性豊かで発想の意外性はご存じのとおりである。 最近盛んに顔を出すようになったのが、数学の天才で数量学者でもある高橋洋一。 元大蔵・財務官僚で、内閣官房参与をしていたこともあり、政界・経済界へ精通している。 様々な政治経済・社会問題に至るまで、”正論”を言い放っている。 解剖学を専門としている養老孟司先生の公演ビデオは素晴らしい。 世間一般人とは全く違う視点で(自然を)見ることを説いている。

ホリエモン、高橋洋一、 養老孟司 先生。 彼らは非常に頭が良く、異常なほどに好奇心が強い。 当然のごとく教養豊かで話が面白い。 それぞれの分野で飛び切りの感性を有しているのだろうが、情緒レベルは普通の人と思われる。 優秀であることと情緒豊かであることの間には相関関係がないのだろう。 

アルコールが飲めない話に戻しますが、飲めれば人生を2倍楽しめたように、感性が研ぎ澄まされ情緒豊かな人は(同じ画像データを前にして)2倍、いやそれ以上楽しめるのだろうと思う。 単なる性的好奇心で終わってしまうことが、視覚的、知的好奇心に至る世界まで(自らを)導いていくことですから、これ以上の”贅沢”はないわけです。

性的好奇心では終わらせず、視覚的、知的好奇心まで観る者を”引きずり込む”のは、それなりの”心得”が必要になります。 この撮影をして、編集してこうして載せていく過程を紹介してみましょう・・ とはいえ、これから書くことは自己満足の類であり、私のやり方ですので、感性を同じくする人たちには参考になるかもしれません。

世の中にはヌード画像は溢れてますし、このブログでも溢れてますが、そんな中で、(スルーされることなく)目を留めさせることはそれなりの心得は当然のようにあります。

上の画像に関しては・・・見た瞬間、Y字部分に目が行くでしょうが、それには”布石”がありまして、左上に(無意識のうちに)眼に入るバストトップの存在があります。 この二か所のバランスの中に画像の構図があります。 そのバランスの中に、下腹部から太ももにかけての豊満な肉感に満足するわけです。 ここから先が大切で、右上の真っ黒で見えない世界へ、自らの勝手な想像(ストーリー)は始まります。 この画像は完ぺきではありません。 豊満な肉体はありますが、人物の表情がありません。 その不足を捜しに下の画像へとスクロールしていくわけです。 いつの間にやら、この画像から離れ、解放され、フェードアウトしていくことになります。 

私がしていることは、不完全・未完成な画像を提示しているだけで、この画像をどう見るかは、観る者に任せている・委ねているわけです。 

Kimiko SNSに上げられない画像ばかり

彼女にとっては初めてのヌード

このモデルさんの場合、私が初めて彼女のヌードを撮ることになった。 10年前くらいだったか、FBに若い人たちがたくさん登録していた時。 どのような縁だったかは思い出せないが、いつしか、「友達」になっていた。 私が、彼女のプロフの写真を見る機会があって、当時の僕はモデルを捜してまして、彼女にモデルになってもらえないか?というメッセを送りました。 当時は、彼女は名古屋住まいだったので、東京までの交通費と若干のモデルフィーは用意するから・・という内容で。 

当時の私は、ヌードばかりを撮ってましたから、彼女の方もヌードでのオファーなのだということを了解していたと思われます。 バレエの経験を積んでいたこともあり、人前でレオタード姿になることには抵抗はないとは思いますが、ヌードであれば別問題であることは当然ですが、快く全裸での撮影をOKしてしてくださいました。 もちろん、全裸での撮影は、彼女にとっては初めてのことでした。 

快くヌードでの撮影を受けてくれたのも、僕が既にFBではある程度知られて存在だったからです。 だから、安心してモデルになれること、それまでの表現の延長として、モデルになることに興味があったのかもしれません。 

それ以後、数回目の撮影で撮れた写真が、フランスのキュレイターの目に留まり、イスタンブールでの(僕の初めての)展示会へ繋がっていったわけです。 彼女がいなければ”私のデビュー”もなかったかもしれません。 互いにこの上なく素晴らしい出会いになったことは確かですが、彼女にとってはモデルとしてのステージが上がったこともあって、プライド(意識)があがり、私は私で写真家としての立ち位置も定着しつつあり、撮影に関して、スムーズさを欠くようになりました。 「作品撮り」に関しての互いの意識の違いが浮き彫りになった次第です。

書きにくいことを敢えて書きますが・・モデルとしてのステージが上がれば、他の写真家からはそれ相応のモデルフィーを頂いての撮影となり、私に関しては、それなりの撮影料を頂いての撮影も増えていき、「相互に無償の撮影」が成り立ちにくくなります。 ・・撮影料を頂いての撮影では、世間的にはかなり知られている女性も多く、このブログでは展示できませんが。 

アート感覚を有する人たち

アート的には魅力あるポージングに繋がる

このモデルさんは、バレエの素養があるので、ポージングには慣れているわけですが。 これらの画像をよく見ていると、手足の指先まで意識が行き届いていることです。 これは、あるレベル以上に体で表現することを学んだ者だけが出来ることと思います。 これから、モデルをしようと思う方がいるなら、大切なのは体の体幹への意識ではなく、むしろ、手足の指先に意識をもって行けば、アート的には魅力あるポージングに繋がると思ってよいでしょう。 

なぜ、体幹でなく指先なのか?と言えば、体幹を意識したポージングは既成のありきたりのポージングになりがちであり、そのモデルの個性さえも奪ってしまうようなことにもなります。 私は、撮影においてはそのモデルらしさを撮りに行ってるのであり、お決まりの姿を撮ろうとは思わないのです。

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彼女にとっては初めてのヌード

ヌード 天から授かったプロポーション 

天から授かったププロポーション

ヨーロッパで展示した際、このバストの美しさは格別(アメージング)だ!と来場者から言われてことがある。

このモデルを撮影したのは10回くらいあって、これは2回目の撮影であったと思われる。 1回目より、しっかり体を絞ってきていて、3~5キロくらい減量してきたと言っていたことを覚えている。 初めてのヌード撮影では、ふっくら感がありましたが、2回目からは体のラインが浮かび上がり「天から授かったプロポーション」であることを印象付けられた。幼少のころからバレエを続けており、インストラクターの資格を持っているとのこと。 したがって、ポージングには無駄や潤みがなく、とても撮り易かったこと。 欲を言えば、顔の表情に変化があれば?とも思った。

ヌードを撮影し始めて、10年くらいになりますが、そのころはFBの全盛時で、どういう経路を経て繋がっていたか分かりませんが、繋がっていた中から、この人を撮りたい・・と思わせる女性が多くいましたね。 私の方から「展示会へ出展したいので・・」ということで撮影依頼をしましたが、皆OKの返事が返ってきてました。 当日も、ヌードで撮影することは共有してましたから、スムーズに撮影は進行していきました。 回を重ねる飛びにモデルのスキルは上がり、出来上がった「ブログではっている作品」を参考にしながら、モデルも私も次の会には更に良い作品を撮ろうことを共有していったと思われます。

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アート的には魅力あるポージングに繋がる

“Oiran images”

I think the image on the upper left is “masterpiece?” I tend to think that photography is a product of chance, but I think that this work was “a work that was exactly what I was aiming for.”

In the images before and after this, the hair is captured as it is. In such cases, models with no hair may show their genitals in the photo, making it difficult to exhibit (although other pages include images of genitals).

この前後の画像では、ヘアーがそのまま写り込む撮影となっている。 こういう場合、ヘアーがないモデルでは、性器が写り込んでしまうので、展示しにくい場合がある(他のページでは、性器が写り込んだ画像も載せてはいますが)。

This image is edited in a very peculiar way. It has an edge (consciously trying to strengthen the outline). The impression is closer to painting, but I am thinking of making it a “work in another realm” that is neither a photograph nor a painting. The drawback of this editing is that the image quality deteriorates significantly. Therefore, it can only withstand outputs up to A2.

この画像はかなり癖のある編集をしている。 エッジを立てている(意識的に輪郭を強めるようにしている)。 印象は絵画に近づくが、写真でもなく絵画でもない、「別の領域にある作品」にしようと考えている。 この編集の欠点は、著しく画質が劣化することです。 したがって、A2位の出力までしか耐えられません。

In images other than Oiran, we can hardly see the expression of the face, but when it comes to shooting Oiran, the facial expression is the “game”. Regarding that, I remember telling the model in detail, but it didn’t come across well. “Communication on set is difficult.” “It must be difficult even for an actor to have a model direct a courtesan.” The model has a glamorous appearance, but the eyes must be dead like a “recluse”. …Maybe my demands on the model are too high in this area, but for me, if it comes down to compromising, I won’t take pictures…

花魁以外の画像では、顔の表情はほとんど見えてきませんが、こと花魁の撮影に関しては、顔の表情が”勝負”になる。 そのことに関して、私はモデルに詳しく伝えたが、上手く伝わらなかったことを覚えている。 撮影現場でのコミュニケーションは難しいのです。 モデルが花魁を演出するというのは、役者でも難しいでしょうね。 モデルは見た目は艶やかではあるが、目は”世捨て人”のように死んでないといけないのです。 ・・この辺は、モデルに対する僕の要求レベルが高すぎかもしれませんが、でも、私にとって、妥協するぐらいなら、作品撮りはしませんが・・。

As soon as I pick up my camera, I am no longer a “man.” Perhaps that’s why the models also take bold poses. This “not being a man” is very important in nude photography. I’m thinking of using the upper left photo at an exhibition someday (the green light coming in from the left side is beautiful, though it’s an edited color).

私はカメラを手にしたとたんに、”男性”ではなくなる。 だからなのか、モデルは大胆なポーズをとるようにもなる。 この、”男性ではなくなる”ことは、ヌード撮影においてはとても重要なことで、女性を観る目線が普段の私ではなくなり、性的好奇心を超えた向こう側からカメラを構えていることになる。 左上の写真は、いつか展示会で使おうと思っている(左横から差し込むグリーンの光が美しく出ている・・編集で加えた色だけど)。









I consider myself a photographer who shoots in color, not in light and dark, and I prefer images with color. Therefore, when shooting works, I often use color instead of monochrome. At the editing stage, you can control the colors to some extent, but if you can’t shoot the original, no matter how hard you try with Photoshop, there is a limit.

私は、明暗でなく色彩で撮る写真家であると思っているし、色彩のある画像をより好んでいる。 だから、作品撮りをする際はモノクロでなくカラーにすることが多くなる。 編集段階において、色彩コントロールはある程度できるが、原画で撮れないと、いくら、フォトショで頑張っても限界がある。

“Difficulty of shooting in color” Anyone who has experienced painting knows the difficulty of “adjusting the tone” at the finishing stage. If it is a photograph, it will be very troublesome because it will be automatically recorded (physically correct). Therefore, it becomes extremely difficult to prepare backgrounds and costumes (it would be nice to have the help of a stylist, but if the taste does not suit my taste, the shoot will be ruined, so I try to do everything myself. I have to). In shooting, I think the most important thing for me is to create a “preferred atmosphere” (like adding color to the atmosphere).

「カラーで撮ることの難しさ」 絵画を描くことを経験したものであれば、その仕上げ段階で「トーンを整える」ことの難しさは誰でも知っている。 写真であれば、自動的に(物理的に正しく)記録してしまうのでとても厄介なことになる。 したがって、背景や衣装などの準備が至極に難しくなる(スタイリストさんの助けを借りると良いのだろうが、テイストが私の趣味に合わなければ、撮影は台無しになるので、全て自分で完結するようにしている)。 撮影において、私にとって最も大切にすることは「好みの空気感」を創ることだと考える(空気に色付けするように)。





All of these shots were taken while setting up in a corner of my office. The difficult thing here is… Models are required to have a certain level of “acting”. Also, it wouldn’t be a serious picture if the oiran didn’t produce the fatigue and sadness after taking a guest. “This is the most difficult part for both photographers and models.”

これらの撮影は全て私の事務所の片隅でセッティングしながら撮った画像である。 ここで難しいことは・・モデルにはそれなりの”演技”は要求される。 それも、花魁が客をとった後の倦怠感と悲哀を演出してもらわないことにはシリアスな絵にはならない。 ここは、フォトグラファーにとってもモデルにとっても、最も難しいことなのです。

There are many “Oiran images” here, but there are almost no Oiran-like images, though they are worth seeing as art. “Is it because the story doesn’t come out?” I would like you to pretend to be a courtesan and appear in the photo, but I wonder if my “intent” was not conveyed or if it was difficult to direct, which is an issue for the future. “Let’s create an atmosphere of emptiness after having a customer, let’s say we’re tired, let’s call it helplessness!”

ここに「花魁の画像」を数多く載せているが、花魁らしく撮れた画像はほとんどない・・アートとして見応えは十分あるが。 ストーリー性が出てこないからなのか。 花魁に成り切って写り込んでほしいと思うのだが、僕の”意思”が伝わらなかったのか、演出が難しいのか、そのへんのところは今後の課題でもある。 「お客をとった後の倦怠感というか、やるせなさと言うか・・そういう虚しさみたいな空気感を創ろう!」というのは所詮無理なことかもしれない。 

The French curator who first “discovered” me and I spent a few days at a rental house in Nice, discussing “photographs with a serious narrative”. Among the oiran images I took, this one is good, but this one is no good. It’s the facial expression of a courtesan (prostitute), including the pose, what is the criteria for good or bad? “Glossy but recluse eyes” is the game.

僕を最初に”発掘”したフランスのキュレイターとは、ニースのレントハウスで数日一緒に過ごしたが、「シリアスなストーリー性のある写真」について話し合った。 僕のとった花魁の画像の中で、これはよいが、これはダメだ・・という話になった。 ポーズも含めて花魁(遊女)の表情なのです、その良し悪しの基準は。 ”艶やかではあるが世捨て人の目”が勝負なのです。 

Even if it is natural that the tastes of the creator get involved, I consciously try to avoid photos that show my “proclivities”. For both photographers and those who appreciate their work, the distinction between “proclivities” and “policies” is often blurred (because photography started from the point of recording, Is it because there is a premise that the “real world” is reflected realistically?). For me, photography, painting, and sculpture are indistinguishable as visual art.

製作者が嗜好が入り込むことは当然としても、私は”性癖”が写り込むような写真は意識的に避けるようにしている。 写真家にも、作品を鑑賞する人たちにも、”性癖”と”ポリシー”との区別が曖昧になっていることが多い(写真は記録するというところからスタートしていることもあり、”現実世界”がリアルに写り込んでいるという前提があるからだろうか)。 私にとって、写真も絵画も彫刻も、ビジュアルアートとして区別することはない。

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ヌード 天から授かったプロポーション 

出張撮影

私は欲深い人間なので、いや、試行錯誤ばかりの人間なので、あらゆる可能性を探りながら撮り続けている。 そんな錯誤の中でも、これは!というのが、ここに載せてる画像。 この撮影にあたって、自分のスタジオではなく、モデルさん宅に出かけて撮影している。 贅沢な家具が揃っていて、ロケーションには不足はない。 後は、私がどれだけ撮れるか?ということだけ。 

この画像は、バルチュスの絵画を想わせるような感じかな・・

私の命は私のものではない

私の命は私のものではない

私は、知らないうちにこの世に生まれてきた

私の意志には関係なくこの世に出てきた

気が付いたら、今の自分になっていた‥に過ぎない

私の車は所有権が私にある以上、私の車だが、

私自身は私のもではない、少なくとも、私の所有物ではない

だから、この私を他の誰かに売り飛ばしたり、勝手に壊すことはできない

私の命は私のものではない