
:
「美は規格ではない」ということ。
社会的に整えられた美ではなく、個の歴史や選択が刻まれた身体そのものが、美として成立しうるという実感。

まず、世の中一般に対して・・・
この作品集は、「身体とは何か」「性とは何か」という固定された前提を、やわらかく揺さぶります。トランスジェンダーという存在は、ともすると説明や議論の対象として扱われがちですが、作品として提示されることで、それは“理解する対象”から“感じる存在”へと移行する。
言葉で定義するのではなく、光や陰影、姿勢や視線の中で「在る」ことが示される。そのとき、人は自分の中にあった無意識の境界線に気づかされます。
一方で、アート志向の生徒たちにとっては、さらに直接的な刺激になります。
それは技術的な模倣の対象というより、「どこまで自分を表現の素材にしてよいのか」という問いを突きつける存在です。
すきら(Skhilla)のようなArtist-Modelは、単に“被写体”ではありません。
自らの身体や変化の過程、そして内面の揺らぎまでも作品の中に差し出している。そこには、従来の「モデル=受け身」という構図を超えた、主体的な表現者としての在り方があります。
アート志向の生徒たちはそこから、少なくとも三つの気づきを得るでしょう。
ひとつは、「美は規格ではない」ということ。
社会的に整えられた美ではなく、個の歴史や選択が刻まれた身体そのものが、美として成立しうるという実感。
もうひとつは、「表現は安全な場所だけで行われるものではない」ということ。
自己をさらすことには痛みや葛藤が伴う。しかし、そのリスクの中にしか立ち上がらない真実もある。
そして最後に、「見ることの責任」です。
トランスジェンダーの身体をどう見るのか。好奇の目なのか、共感なのか、それともただの美として受け取るのか。
鑑賞者である自分自身の視線が問われることで、作品は完成します。
ただし、ここで一つ現実的な注意も必要です。
こうした作品は、受け取る側の成熟度によっては誤解や単純化を招く可能性もある。特に若い生徒にとっては、「衝撃」だけが先に立ち、本質的な問いにまで届かないこともあるでしょう。
だからこそ、教育の現場で扱う場合には、作品そのものと同時に「どう見るか」を丁寧に言語化する伴走が重要になります。
結局のところ、この作品集がもたらすのは「答え」ではありません。
むしろ、見る者の内側に長く残り続ける「問い」です。
その問いに向き合い続ける経験こそが、これからの社会やアートに関わる人間にとって、最も深い影響になるのだと思います。

妙なリアリティーがあります。
YouTube上で、よく知られたポピュラーソングをAIで再現・生成した楽曲が流れている――この現象は、単なる技術の進歩というより、「著作権の枠組みそのもの」を揺さぶる出来事です。結論から言えば、現時点では既存の著作権法の枠内で扱われますが、その運用はかなり繊細で、グレーゾーンも多く存在しています。

例えば、既存の楽曲をそのまま流す、あるいはAIで音質だけ変えても中身が同じ場合。
→ これは明確に著作権侵害です。
作曲者・作詞者の「著作権」と、歌手やレコード会社の「著作隣接権」が関係します。
YouTubeでは、Content IDという仕組みにより、自動的に検出され、
たとえば、AIに宇多田ヒカル風に歌わせる、といったケース。
ここが最も議論の多い領域です。
日本では、JASRACなどとYouTubeが包括契約を結んでいるため、
正規のカバーとして扱われる場合もあるのですが――
問題は「声」です。
AIが特定の歌手の声を再現する場合:
つまり、
「その人だと誤認させるレベルの再現」は危険領域
現時点では法律が追いついておらず、判例も少ないため、各プラットフォームや権利者の判断に委ねられているのが実情です。
ここが最も“芸術的で、曖昧な領域”です。
こうなると「翻案権(派生作品)」の侵害になる可能性があります。
音楽はもともと「似る」ものです。
それでも、ある境界を越えた瞬間、「偶然」から「依拠」に変わる。
現実的には次の3つに収束します:
つまり、「合法か違法か」よりも
「権利者がどう判断するか」が大きく影響します。

AIによる音楽は、かつての写真や録音と同じように、
「表現とは何か」という問いを再び私たちに突きつけています。
模倣と創造の境界。
声は誰のものか。
そして、感情はコピーできるのか。
法律は後から整備されますが、
その前に問われているのは――
それは「作品」なのか、それとも「影」なのか。


(写真:パリ北駅の向かいのカフェ 2019年)
「「共学なのに9割以上が女子生徒」茨城の公立校で異変…男子生徒数が急増、人気校に「先生、野球部つくっちゃおうよ!」創部3年で“部員0→21人”のウラ側
N」…この記事に寄せて。
======================
この記事を読んで、私はふと「写真の現場」によく似た気配を感じた。
完成されたものではなく、まだ形になっていないものに人が集まる――その不思議な引力である。
かつて私は、整いすぎた美にどこか息苦しさを覚えたことがある。光も構図も完璧で、技術的には非の打ちどころがない。それでも、そこに「入り込む余地」がない写真は、どこか遠い。
一方で、少しバランスが崩れている写真、まだ輪郭の曖昧な瞬間には、不思議と人の気配が宿る。見る側が、その隙間に入り込めるからだ。
この水戸三の野球部は、まさにそういう存在だと思う。
「選手0人、マネージャー3人から始まった」
この一文は、もはや物語の導入として出来すぎている。だが重要なのは、ドラマ性ではない。むしろその裏にある「余白」である。
グラウンドがない。実績がない。勝ってもいない。
普通なら「ないもの」を数えるところだが、ここでは逆に、「まだ決まっていないもの」が価値になっている。
つまり、完成されていないからこそ、自分が関われる余地がある。
写真でいえば、それは「被写体がまだこちらを知らない瞬間」に似ている。
構えられた顔ではなく、何者でもない顔。そこにこそ、こちらの視線が入り込む。
もう一つ、強く印象に残ったのは「男子がいるという心理的安全」という言葉だ。
これは単なる男女比の話ではない。
「場に多様性が生まれることで、人が安心する」という、ごく本質的な話だと思う。
私はこれまで、さまざまなモデルを撮ってきた。プロもいれば、初めてカメラの前に立つ人もいる。
そのとき、最も大切なのは技術ではなく、「ここにいていい」と感じられる空気だ。
水戸三の野球部が生み出しているのは、まさにその空気ではないか。
野球が上手いかどうかではない。
勝てるかどうかでもない。
ここにいていい、関わっていい、未完成のままでいていい――
その許可が、場の価値になっている。
そして、監督・柴田の変化。
かつては「徹底力」によって勝ってきた。だがそれは、自分が主語ではなかった。「勝たせてもらっていた」と彼は言う。
この言葉には、少し痛みがある。だが同時に、表現者としての出発点でもある。
写真でも同じだ。
最初は、誰かの構図や光の真似をする。うまくいくこともある。評価もされる。
だが、どこかで気づく。「これは自分の写真ではない」と。
そこから先は、不安定になる。正解がなくなる。
しかし、その不安定さの中でしか、自分の視点は立ち上がらない。
柴田は、勝利至上主義を手放した。
代わりに選んだのが、「余白」と「自走」。
これは、指導ではなく“関係性”のデザインだと思う。
さらに興味深いのは、彼が「発信」を始めていることだ。
noteや音声配信を通じて、自分の考えを言葉にする。
これは単なる広報ではない。
むしろ、「自分は何者か」を問い続ける行為に近い。
写真家も同じで、撮ることは同時に「自分の立ち位置」を探ることでもある。
誰を撮るのか、なぜ撮るのか。
それを言語化できるかどうかで、作品の深度は変わる。
この野球部は、まだ勝っていない。
だが、すでに「何かを変えている」。
学校の空気。
生徒の選択基準。
そして、おそらくは「高校野球とは何か」という問いそのものを。
私は思う。
これから価値を持つのは、完成された強さではなく、
「未完成のまま開かれている場」ではないか。
写真も、教育も、そしてスポーツも。
人が集まる理由は、もはや結果ではない。
そこに、自分の居場所を見つけられるかどうかだ。
勝っていない。
それでも人が集まる。
その光景は、どこか静かで、しかし確かな強度を持っている。
まるで、まだ現像されていないネガのように。
これからどんな像が浮かび上がるのか――
それは、関わる人間すべてに委ねられているのだと思う。



写真で撮ると、本物の花より造花の方がより花らしく見える
・・これはホント。
AIで作られているので、限りなく聴き心地が良い
でも、ずっと聴いていると
どれもこれも同じに聴こえてくる
:
サキソフォンと人の声って
かなり近いことが分かります
演歌っぽい曲はそれっぽく日本音階に近くなっている
やるね!AI。
:
どこまで、AIは頑張るのだろう
その先に何があるのか、誰にも分かりません。
:
下に載せている画像は勿論、生身の女性ですが・・



Maytime Tea Concert
【日時】
2026年5月17日(日)
14:00開演(13:30開場)
【料金】
5,000円(全席自由・お菓子・お飲み物つき)
【出演】
ピアノ 松井彩子
歌 石島杏理
【会場】
蒼梧記念館(世田谷区給田)
京王線 仙川駅より徒歩12分