「懐かしさ」ではなく、「記憶の再構築」


Variation of Hungarian Traditional “Kis kece lányom”, Ferenc Snétberger , g., Richard Bona, b., v.

Kis kece lányomという、もともとは素朴でどこか土の匂いを感じさせる民謡が、ここまで洗練された音楽へと変容するのか――まず、その変化の振れ幅に心を奪われます。

Ferenc Snétbergerのギターは、語りすぎない。音数を抑えながらも、一音一音が深く沈み、余白に意味を持たせる演奏です。いわゆる技巧の誇示ではなく、「間」を聴かせるタイプの音楽で、聴き手に想像の余地を残す。その静けさは、まるで夕暮れの平原に立つような感覚があります。

一方で、Richard Bonaは対照的に、生命の躍動を持ち込んできます。ベースは単なる伴奏ではなく、旋律のもう一つの声として歌っている。ときに人の声のように、あるいは祈りのように響く。そのアフリカ的なリズム感が、ハンガリーの旋律と不思議なほど自然に溶け合うのが印象的です。

この演奏の面白さは、「民族性の衝突」ではなく、「民族性の融解」にあります。東欧の哀愁とアフリカのリズムがぶつかるのではなく、互いを侵食しながら新しい質感を生み出している。だからこそ、どちらの文化にも属しきらない、どこか“境界にある音楽”として立ち上がってくる。

そして、全体に漂うのは「懐かしさ」ではなく、「記憶の再構築」のような感覚です。原曲を知っている人にとっては、その輪郭が遠くに見え隠れしながら、まったく別の物語へと導かれていく。知らない人にとっても、なぜか胸の奥に触れる何かがある。

率直に言えば、これは“聴く音楽”というより、“時間を味わう音楽”です。派手さや即効性はありませんが、じわじわと深く染み込み、気づけば心のどこかに残っている。そんな作品だと感じました。

ベールで覆われたヌード 素肌とのコントラストで撮る

ベールで覆われたヌード 

素肌とのコントラストで撮る

そのためのライティングの難しさ

モデルさんとプレビュー画面を見ながら

ポージングと透ける布と映り込み・・

これぞ、両者の創意工夫!

いよだなお ピアノとギター ライブ

いよだなお ピアノとギター ライブ

5月10日(日) 13:00~15:00 (開場12:30)

K2スタジオ 調布市仙川1-27-24 K2 ビル(B1)

入場料:1000円

村上!

大リーグで話題沸騰の村上

このまま打ちまくると、年間60ホーマー超えをするんじゃないか・・

って、言われてる。

これはすごいことだね・

大リーグの投手はアホじゃないので

今後はデータ解析をし

村上の打てないところばかり投げてくるはず。

今シーズン、終わってみた時

40本打ててれば、すごいことじゃないですか?

ここは写真掲載サイトあると同時にブログでもあります

ここは写真掲載サイトあると同時に私のブログでもあります

ですから、私の気になる話題・ネタを書き記します

ですから、写真とは全く関係ない話もします

世の中、写真を中心に回っているわけじゃないですし

写真ネタはこの世の一部に過ぎません。

賢い人は・・

ここに載せる写真とネタ話の兼ね合いを楽しんでおられると思います。

ギャラリーやコレクターは、原画が写真家の手元を離れた作品は扱いません

写真における「原画」という言葉は、絵画のそれとは少し違います。けれども、意味の重みはむしろ写真の方が繊細で、そして厳格です。とりわけ海外では、その扱いが作品の「価値」そのものを左右します。

■「原画」とは何か ― 写真における本当の意味

写真における原画とは、単なる「元データ」ではありません。
未編集のRAWデータや高解像度のオリジナルファイルは、作家にとっていわば未完成のネガであり、創作の源泉です。

画家が下描きのスケッチを外に出さないように、写真家もまた「素材そのもの」をむやみに外部に渡すことはしません。
なぜなら、その中には作品になる前の「選択の余白」や「試行錯誤」が含まれているからです。

■日本で起きがちなこと

日本では比較的よくあるのが、

  • 撮影後、モデルに全データを渡す
  • モデルが自由にレタッチしてSNSに投稿する
  • クレジットが曖昧、または省略される

といった流れです。

これは一見、親切でフラットな関係に見えます。
しかし実際には、

  • 写真家の「作品としての統一性」が崩れる
  • 意図しない加工で「別物」になる
  • 誰の作品なのか分からなくなる

という問題を内包しています。

■海外(EU・US)での常識

一方、EUやアメリカでは考え方がまったく異なります。

  • RAWデータは原則として外部に出さない
  • モデルに渡すのはセレクトされた完成データのみ
  • 使用範囲(SNS、ポートフォリオ等)は契約で明確化
  • レタッチは写真家の権限

つまり、「写真は最終的に写真家の作品である」という前提が徹底されています。

このため、もしモデルに原画(未編集データ)を自由に渡してしまうと、

  • 作品の独自性が失われる
  • 同じ画像が無秩序に流通する
  • 展示や販売時に「既出作品」と見なされる

結果として、その写真はアートとしての価値を失う可能性があります。

■なぜ「展示や販売に不利」になるのか

アート作品としての写真は、

  • 希少性(限られた形でしか存在しない)
  • 作家性(誰がどう仕上げたかが明確)

によって価値が支えられています。

ところが原画が広く流通すると、

  • どこにでもある画像になる
  • 誰でも加工できる素材になる

つまり、「唯一性」が壊れてしまうのです。

これは、版画でいうエディション管理が崩壊するのと同じことです。
ギャラリーやコレクターは、そのような作品を基本的に扱いません。

■モデルにとっての誤解と本当のメリット

日本のモデルの方が誤解しやすいのは、

「データをたくさんもらえる=得をしている」

という感覚です。

しかし海外的な視点ではむしろ逆で、

  • しっかり選ばれた作品だけを受け取る
  • 写真家の意図が反映された完成形を使う
  • クレジットと文脈が守られる

こうした方が、モデル自身の価値や表現も守られるのです。

■写真家とモデルの「信頼の形」

本来、写真家とモデルの関係は、

「素材の共有」ではなく
「作品の共同創造」に近いものです。

ただし最終的なアウトプットにおいては、

  • 写真家は「編集と完成の責任」を持つ
  • モデルは「身体と存在の表現」を担う

という役割の違いがあります。

このバランスが崩れたとき、作品は単なる「画像のやり取り」になってしまいます。

もしあなたがモデルとして、より長く、より深く表現に関わりたいのであれば、

  • 原画を求めることよりも
  • 「どのように作品として仕上げられるか」を大切にする

この視点が重要になります。

写真は、シャッターを切った瞬間に完成するのではなく、
そこから「選ばれ、整えられ、意味を与えられる」ことで初めて作品になります。

そしてその過程を守ることこそが、
写真家の価値であり、同時にモデルの価値を守ることにもつながるのです。

もしご希望があれば、「契約書の書き方」や「モデルとして不利にならない条件設定」も具体的に解説できます。

「掘り出し物」と「地雷」は紙一重

「掘り出し物」と「地雷」は紙一重――この言葉には、期待と不安が同時に息づいている。光を当てれば宝石のように輝く可能性を秘めながら、同時に、扱いを誤れば深く傷を残す危うさも孕んでいる。その境界は、思っている以上に曖昧で、そして人の目や心の在り方によって容易に揺れ動く。

まず、モデルという存在において考えてみたい。
撮影の現場において「掘り出し物」と呼ばれるモデルは、しばしば未完成である。洗練されていないがゆえに、既存の枠に収まらない表情や身体性を持ち、撮る者に新しい視点をもたらす。経験の少なさは、欠点ではなく「余白」として機能し、その余白にこそ創作の余地がある。

しかし同時に、その未完成さは「地雷」にもなり得る。
時間感覚の未熟さ、感情の揺れやすさ、自己認識の不安定さ――これらは現場の流れを止める要因となる。表現に対する覚悟がまだ定まっていない場合、途中で躊躇が生まれ、作品の核が崩れることもある。つまり、同じ要素が「魅力」にも「危うさ」にも転じるのだ。

ここで問われるのは、モデルの資質以上に、撮る側の眼差しである。
「掘り出し物」と見抜く力とは、単に美しさを見つけることではない。その人の未熟さを含めて引き受け、どのように作品として昇華できるかを見通す力である。逆に言えば、その見通しが甘いとき、人は「地雷」を踏む。つまり、対象の問題というより、関係性の設計の問題とも言える。

この構図は、モデルの世界に限らない。
一般論としても、「掘り出し物」と「地雷」は常に隣り合わせにある。

たとえば中古品、投資、人材、あるいは人間関係。
価格が安い、評価が低い、まだ知られていない――そうした対象に手を伸ばすとき、人は「掘り出し物」を期待する。しかし、その裏側には必ず理由がある。見落とされた価値なのか、それとも見過ごせない欠陥なのか。その見極めは容易ではない。

興味深いのは、人はしばしば「自分の期待」を根拠に判断を歪めるという点である。
「これはきっと良いものだ」という直感は、ときに鋭いが、ときに盲目でもある。期待が強いほど、都合の悪い兆候を無視しやすくなる。その瞬間、「掘り出し物」は静かに「地雷」へと姿を変える。

では、どうすればよいのか。
結局のところ、必要なのは二つの視点の同時保持である。
一つは、可能性を見る目。もう一つは、リスクを見る目。
どちらか一方に偏ったとき、人は判断を誤る。

モデルの撮影においても、人生の選択においても同じことが言える。
未完成なものに惹かれる感性は、創造の源泉である。しかし、その未完成さをどう扱うかという冷静さが伴わなければ、それはただの無防備な賭けになる。

「掘り出し物」と「地雷」は紙一重。
その一重を隔てているのは、対象そのものではなく、向き合う側の覚悟と洞察なのだろう。

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