
:
いよだなお ピアノとギター ライブ
5月10日(日) 13:00~15:00 (開場12:30)
K2スタジオ 調布市仙川1-27-24 K2 ビル(B1)
入場料:1000円

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いよだなお ピアノとギター ライブ
5月10日(日) 13:00~15:00 (開場12:30)
K2スタジオ 調布市仙川1-27-24 K2 ビル(B1)
入場料:1000円

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大リーグで話題沸騰の村上
このまま打ちまくると、年間60ホーマー超えをするんじゃないか・・
って、言われてる。
これはすごいことだね・

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大リーグの投手はアホじゃないので
今後はデータ解析をし
村上の打てないところばかり投げてくるはず。
今シーズン、終わってみた時
40本打ててれば、すごいことじゃないですか?


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ここは写真掲載サイトあると同時に私のブログでもあります
ですから、私の気になる話題・ネタを書き記します
ですから、写真とは全く関係ない話もします
:
世の中、写真を中心に回っているわけじゃないですし
写真ネタはこの世の一部に過ぎません。
賢い人は・・
ここに載せる写真とネタ話の兼ね合いを楽しんでおられると思います。

写真における「原画」という言葉は、絵画のそれとは少し違います。けれども、意味の重みはむしろ写真の方が繊細で、そして厳格です。とりわけ海外では、その扱いが作品の「価値」そのものを左右します。
写真における原画とは、単なる「元データ」ではありません。
未編集のRAWデータや高解像度のオリジナルファイルは、作家にとっていわば未完成のネガであり、創作の源泉です。
画家が下描きのスケッチを外に出さないように、写真家もまた「素材そのもの」をむやみに外部に渡すことはしません。
なぜなら、その中には作品になる前の「選択の余白」や「試行錯誤」が含まれているからです。
日本では比較的よくあるのが、
といった流れです。
これは一見、親切でフラットな関係に見えます。
しかし実際には、
という問題を内包しています。

一方、EUやアメリカでは考え方がまったく異なります。
つまり、「写真は最終的に写真家の作品である」という前提が徹底されています。
このため、もしモデルに原画(未編集データ)を自由に渡してしまうと、
結果として、その写真はアートとしての価値を失う可能性があります。
アート作品としての写真は、
によって価値が支えられています。
ところが原画が広く流通すると、
つまり、「唯一性」が壊れてしまうのです。
これは、版画でいうエディション管理が崩壊するのと同じことです。
ギャラリーやコレクターは、そのような作品を基本的に扱いません。

日本のモデルの方が誤解しやすいのは、
「データをたくさんもらえる=得をしている」
という感覚です。
しかし海外的な視点ではむしろ逆で、
こうした方が、モデル自身の価値や表現も守られるのです。
本来、写真家とモデルの関係は、
「素材の共有」ではなく
「作品の共同創造」に近いものです。
ただし最終的なアウトプットにおいては、
という役割の違いがあります。
このバランスが崩れたとき、作品は単なる「画像のやり取り」になってしまいます。

もしあなたがモデルとして、より長く、より深く表現に関わりたいのであれば、
この視点が重要になります。
写真は、シャッターを切った瞬間に完成するのではなく、
そこから「選ばれ、整えられ、意味を与えられる」ことで初めて作品になります。
そしてその過程を守ることこそが、
写真家の価値であり、同時にモデルの価値を守ることにもつながるのです。
もしご希望があれば、「契約書の書き方」や「モデルとして不利にならない条件設定」も具体的に解説できます。

「掘り出し物」と「地雷」は紙一重――この言葉には、期待と不安が同時に息づいている。光を当てれば宝石のように輝く可能性を秘めながら、同時に、扱いを誤れば深く傷を残す危うさも孕んでいる。その境界は、思っている以上に曖昧で、そして人の目や心の在り方によって容易に揺れ動く。
まず、モデルという存在において考えてみたい。
撮影の現場において「掘り出し物」と呼ばれるモデルは、しばしば未完成である。洗練されていないがゆえに、既存の枠に収まらない表情や身体性を持ち、撮る者に新しい視点をもたらす。経験の少なさは、欠点ではなく「余白」として機能し、その余白にこそ創作の余地がある。
しかし同時に、その未完成さは「地雷」にもなり得る。
時間感覚の未熟さ、感情の揺れやすさ、自己認識の不安定さ――これらは現場の流れを止める要因となる。表現に対する覚悟がまだ定まっていない場合、途中で躊躇が生まれ、作品の核が崩れることもある。つまり、同じ要素が「魅力」にも「危うさ」にも転じるのだ。
ここで問われるのは、モデルの資質以上に、撮る側の眼差しである。
「掘り出し物」と見抜く力とは、単に美しさを見つけることではない。その人の未熟さを含めて引き受け、どのように作品として昇華できるかを見通す力である。逆に言えば、その見通しが甘いとき、人は「地雷」を踏む。つまり、対象の問題というより、関係性の設計の問題とも言える。

この構図は、モデルの世界に限らない。
一般論としても、「掘り出し物」と「地雷」は常に隣り合わせにある。
たとえば中古品、投資、人材、あるいは人間関係。
価格が安い、評価が低い、まだ知られていない――そうした対象に手を伸ばすとき、人は「掘り出し物」を期待する。しかし、その裏側には必ず理由がある。見落とされた価値なのか、それとも見過ごせない欠陥なのか。その見極めは容易ではない。
興味深いのは、人はしばしば「自分の期待」を根拠に判断を歪めるという点である。
「これはきっと良いものだ」という直感は、ときに鋭いが、ときに盲目でもある。期待が強いほど、都合の悪い兆候を無視しやすくなる。その瞬間、「掘り出し物」は静かに「地雷」へと姿を変える。
では、どうすればよいのか。
結局のところ、必要なのは二つの視点の同時保持である。
一つは、可能性を見る目。もう一つは、リスクを見る目。
どちらか一方に偏ったとき、人は判断を誤る。
モデルの撮影においても、人生の選択においても同じことが言える。
未完成なものに惹かれる感性は、創造の源泉である。しかし、その未完成さをどう扱うかという冷静さが伴わなければ、それはただの無防備な賭けになる。
「掘り出し物」と「地雷」は紙一重。
その一重を隔てているのは、対象そのものではなく、向き合う側の覚悟と洞察なのだろう。
XのURL:

1番目に出てくる写真は・・
世界的な写真サイトstrkngで日本で最高の写真」として選ばれてます。
model: Mone Anri


まず、世の中一般に対して・・・
この作品集は、「身体とは何か」「性とは何か」という固定された前提を、やわらかく揺さぶります。トランスジェンダーという存在は、ともすると説明や議論の対象として扱われがちですが、作品として提示されることで、それは“理解する対象”から“感じる存在”へと移行する。
言葉で定義するのではなく、光や陰影、姿勢や視線の中で「在る」ことが示される。そのとき、人は自分の中にあった無意識の境界線に気づかされます。
一方で、アート志向の生徒たちにとっては、さらに直接的な刺激になります。
それは技術的な模倣の対象というより、「どこまで自分を表現の素材にしてよいのか」という問いを突きつける存在です。
すきら(Skhilla)のようなArtist-Modelは、単に“被写体”ではありません。
自らの身体や変化の過程、そして内面の揺らぎまでも作品の中に差し出している。そこには、従来の「モデル=受け身」という構図を超えた、主体的な表現者としての在り方があります。
アート志向の生徒たちはそこから、少なくとも三つの気づきを得るでしょう。
ひとつは、「美は規格ではない」ということ。
社会的に整えられた美ではなく、個の歴史や選択が刻まれた身体そのものが、美として成立しうるという実感。
もうひとつは、「表現は安全な場所だけで行われるものではない」ということ。
自己をさらすことには痛みや葛藤が伴う。しかし、そのリスクの中にしか立ち上がらない真実もある。
そして最後に、「見ることの責任」です。
トランスジェンダーの身体をどう見るのか。好奇の目なのか、共感なのか、それともただの美として受け取るのか。
鑑賞者である自分自身の視線が問われることで、作品は完成します。
ただし、ここで一つ現実的な注意も必要です。
こうした作品は、受け取る側の成熟度によっては誤解や単純化を招く可能性もある。特に若い生徒にとっては、「衝撃」だけが先に立ち、本質的な問いにまで届かないこともあるでしょう。
だからこそ、教育の現場で扱う場合には、作品そのものと同時に「どう見るか」を丁寧に言語化する伴走が重要になります。
結局のところ、この作品集がもたらすのは「答え」ではありません。
むしろ、見る者の内側に長く残り続ける「問い」です。
その問いに向き合い続ける経験こそが、これからの社会やアートに関わる人間にとって、最も深い影響になるのだと思います。

妙なリアリティーがあります。
YouTube上で、よく知られたポピュラーソングをAIで再現・生成した楽曲が流れている――この現象は、単なる技術の進歩というより、「著作権の枠組みそのもの」を揺さぶる出来事です。結論から言えば、現時点では既存の著作権法の枠内で扱われますが、その運用はかなり繊細で、グレーゾーンも多く存在しています。

例えば、既存の楽曲をそのまま流す、あるいはAIで音質だけ変えても中身が同じ場合。
→ これは明確に著作権侵害です。
作曲者・作詞者の「著作権」と、歌手やレコード会社の「著作隣接権」が関係します。
YouTubeでは、Content IDという仕組みにより、自動的に検出され、
たとえば、AIに宇多田ヒカル風に歌わせる、といったケース。
ここが最も議論の多い領域です。
日本では、JASRACなどとYouTubeが包括契約を結んでいるため、
正規のカバーとして扱われる場合もあるのですが――
問題は「声」です。
AIが特定の歌手の声を再現する場合:
つまり、
「その人だと誤認させるレベルの再現」は危険領域
現時点では法律が追いついておらず、判例も少ないため、各プラットフォームや権利者の判断に委ねられているのが実情です。
ここが最も“芸術的で、曖昧な領域”です。
こうなると「翻案権(派生作品)」の侵害になる可能性があります。
音楽はもともと「似る」ものです。
それでも、ある境界を越えた瞬間、「偶然」から「依拠」に変わる。
現実的には次の3つに収束します:
つまり、「合法か違法か」よりも
「権利者がどう判断するか」が大きく影響します。

AIによる音楽は、かつての写真や録音と同じように、
「表現とは何か」という問いを再び私たちに突きつけています。
模倣と創造の境界。
声は誰のものか。
そして、感情はコピーできるのか。
法律は後から整備されますが、
その前に問われているのは――
それは「作品」なのか、それとも「影」なのか。