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撮影の舞台となったのは、デビュー当時に訪れた思い出の地・香川県小豆島。
瀬戸内の美しい風景、自然、歴史ある場所を背景に、少女の頃から成長してきた彼女の軌跡と、現在の大人の表情が丁寧に表現されています。
美しいロケーションの中で見せる自然体の姿は、ファンにとって貴重な一冊になるでしょう。また、写真表現としても、人物の魅力を引き出す光や構図、空気感を楽しめる作品です。
山谷花純さんのこれまでの歩みを知る方はもちろん、俳優としての新しい魅力を感じたい方にもおすすめしたい写真集です。
山谷花純写真集 遠距離、現在此。
3,850円
秋風が肌寒く感じられる頃になると、決まって胸の奥がきしむように痛む。もう何年も前のことになるのに、季節がめぐるたび、心はあのときのまま立ち止まったままだ。亡き子を想う心とは、こうも時を越えて揺らぎ続けるものなのかと、我ながら驚く。人は忘れることによって癒されていくというが、親が子を失ったとき、その「忘れる」という作用が不思議と働かない。どんなに時が経っても、あの小さな笑顔、声、手のぬくもりがありありと蘇り、涙が知らぬ間に頬を伝っている。
子どもを失うという経験は、人生における最も過酷な試練のひとつだろう。順番を違えるという不条理、命の尊さを痛感する瞬間、そして残された日々の重さ。それらすべてが、私の日常の中にひそやかに、けれど確かに存在している。
思い出すのは、ほんのささいなことばかりだ。朝の光の中で「おはよう」と笑った顔。公園で転んで泣きながらも、また立ち上がって走り出した後ろ姿。食卓で好き嫌いを言いながらも、最後にはきちんと完食した誇らしげな顔。どれも、何気ない日常の一コマに過ぎないはずなのに、今となってはどれほど貴重で、どれほど愛おしいものだったのかを、ひしひしと感じる。
ときには、夢の中にあの子が現れることもある。夢の中では、時間も現実も関係なく、そこにただ「在る」ことができる。手を握り、声をかけ、抱きしめることができる。しかし目が覚めた瞬間、その温もりが幻だったと気づくのが何より辛い。再び現実の孤独に引き戻されるあの瞬間、心が千々に乱れ、涙が堰を切るようにあふれ出す。
誰かに「もう前を向いて生きなければ」と言われることがある。善意からの言葉であることは理解している。だが、親にとって子どもとは未来そのものだった。その未来を失った者にとって、「前を向く」とはどういうことなのか。その方向には何があるのか。時に、それが見えなくなる。
だが同時に、あの子が遺してくれたものも確かにある。生きる意味、命の重み、そして何よりも「今ここにいる」という奇跡への感謝。もしあの子が何の意味もなくこの世を去ったと考えるならば、それこそ耐え難い。だからこそ、あの子の存在が私の中で生き続けるように、私は今日も語る。思い出す。泣く。そして、時には笑う。
悲しみは癒えない。だが、悲しみと共に生きることはできる。まるで雨の中を歩くように、濡れることを恐れずに、少しずつ歩みを進める。それが私の選んだ生き方だ。亡き子を忘れることなく、けれどその死に囚われすぎずに。
月命日には、必ず花を供え、小さな好きだったお菓子をお供えする。短い手紙を書くこともある。内容は日常の報告から、ふとした心の揺れまでさまざまだが、その行為が私を支えている。誰に向けるでもない思いを文字にすることで、私はあの子と再びつながれるような気がする。
一度だけ、「あなたに会えてよかった」と夢の中であの子が言ったことがある。その言葉を信じていいのか、夢という不確かなものに寄りかかっていいのかと、目覚めた後もずっと考えていた。しかし、もしそれが私の心が紡いだ言葉だとしても、それは私にとって真実だと思う。私もまた、「あなたに会えてよかった」と心から言えるから。
時の流れは、何もかもを押し流すようでいて、本当に大切なものは流さない。それはきっと「想い」なのだろう。亡き子への想いは、私の中に静かに、しかし確かに根を下ろし、花を咲かせることはなくとも、命の灯として燃え続けている。
秋の空を見上げると、ふとあの子の声が風に乗って聞こえる気がする。「おかあさん、だいじょうぶ?」と。その問いに、私は静かに答える。「だいじょうぶよ。あなたがいてくれるから」。その言葉を胸に、今日も私は歩き出す。
涙にくれぬる日々は、これからも幾たび訪れるだろう。だが、それでも私は知っている。亡き子を想う心が、私を生かしているのだということを。涙もまた、命の証なのだと。

戦国小町苦労譚(コミック)
726円
フォトエッセイ「Pat Metheny – And I Love Her」
フォトエッセイ「雨の夕暮れ野分 – 夏目漱石」

以来私は、撮影の際、できるだけモデルに指示を与えず、彼女たちが「場と溶け合う瞬間」を待つようになった。構図には常に「余白」を残し、見る者がそこに自分の記憶を重ねることができるよう心がけている。
私にとって制作とは、過去の体験を静かにすくいあげ、未来に送り出す作業である。あの静けさを、別の誰かの心に届けるために、私は今日もまたシャッターを切る。


―モデルに圧倒され、ただシャッターを切るだけの存在になった瞬間―
撮影者として、長い年月のうちに幾度となく「いい瞬間」に立ち会ってきた。だが、言葉にならないほどの美しさというものは、めったに訪れるものではない。それは構図でも光でもなく、モデルの放つ「生の気配」が一気に空間を支配する、ある種の覚醒のような時間だ。
あの日のスタジオには、特別な仕掛けなどなかった。無地の背景と、わずかな自然光、レフ板を一枚。モデルは椅子に座り、ただ目を閉じ、深呼吸をしただけだった。しかし、次の瞬間──彼女の背筋が伸び、腕が静かに動き、顔の角度が一つ変わっただけで、空気が変わった。
カメラを構えるこちらの体が、思わず硬直した。
一枚撮るたびに、こちらの思考は薄れ、ただ「その流れについて行こう」とする意志だけが残った。彼女は、ポーズをとっているのではない。何かを「語って」いた。生まれてから今に至るまでの感情の重なり、言葉にできなかった記憶、そして今ここに立つ意志──そのすべてが体の動きと眼差しに込められていた。
撮っている側であるはずの私は、ただの「目撃者」と化していた。撮るべき構図を探すのではなく、目の前の「現象」にどうにか追いつこうと、夢中でシャッターを切るしかなかった。後でファインダー越しの映像を見返してみても、自分がどうしてこのアングルで撮ったのか、どの瞬間にシャッターを切ったのか、まったく思い出せない。
モデルの存在感に圧倒され、技術や意図などすべてを手放したその瞬間、写真はただ「生まれていた」。
こんな時、写真は単なる記録ではない。芸術とか、表現という枠すら飛び越えて、そこに「生」の残像が焼き付いている。言葉で説明することが野暮になるほど、その1枚の中にはすべてが宿っている。
カメラの前に立つ彼女の姿は、演じられたものではなく、むしろ“彼女自身”がもっとも裸になる瞬間だったのかもしれない。そして、フォトグラファーである私は、その「裸の意志」にひれ伏すようにして、ただシャッターを切る存在でしかなかった。
写真作品の素晴らしさが言葉にならないほど美しい時。それは、モデルの内側と世界の隙間が溶け合い、フォトグラファーの存在すら透明になる、奇跡のような時間である。
ご希望があれば、語り口をより詩的にも、逆にドキュメンタリータッチにも変えることができます。いかがでしょうか?


「性的衝動」自らの奥深くに潜む存在の本質と向き合う瞬間
人の心の奥底にひそむ「性的衝動」というものは、まるで夜の闇にひそむ獣のように、不意にその鋭い牙を覗かせる。人間の理性が築き上げた秩序ある都市の只中でさえ、その衝動は静かに、しかし確かに蠢いている。古の詩人たちはこれを神々のいたずらとみなし、宗教家たちは堕落の兆しとしたが、我々は今、それをひとつの自然現象として、より深く見つめてみることにしよう。
たとえば、何気なく過ぎゆく午後、街角のカフェにて目の前のカップに揺れるコーヒーの波紋をぼんやりと見つめているとしよう。すぐそばのテーブルに座る若い男女の囁きが微かに耳に届く。彼らは低い声で語らい、ふとした瞬間に視線を絡ませる。その眼差しには、ただの言葉のやりとり以上のものが宿っている。その刹那、まるで遠くの雷鳴が雲の間から轟くかのごとく、我々の胸の内にも、小さな電流が走る。これこそが衝動の目覚めであり、人間が本能を意識する瞬間なのだ。
或いは、夜の帳が降りる頃、図書館の薄暗い書架の間を彷徨うときに訪れることもある。重厚な革表紙の書物に指を這わせながら、ふと隣の人物の気配を感じる。その人の吐息がかすかに耳元に届き、わずかに動いた衣擦れの音が、まるで封印された扉を開く合図のように響く。理性は警告するが、身体はわずかに震え、無意識のうちに脈拍が速まる。ここに至って、己の内に巣食う獣の気配を否応なく認識せざるを得ない。
しかし、この衝動は決して単純な肉欲に帰結するものではない。それは、まるで壮大な交響曲の序章のごとく、静かに、かつ劇的に始まり、人の心の襞に深く刻まれる。そこには、美への陶酔があり、未知なるものへの憧憬がある。あるいは、抑圧された感情が解放を求め、時折、意識の隙間から漏れ出すこともある。人間の精神は、本能と理性の間に張り巡らされた細い綱の上を歩いているのであり、その揺らぎこそが、我々の存在をより劇的なものにしている。

ビクトル・ユーゴーが『レ・ミゼラブル』において描いたように、人間の魂は常に善と悪、光と影の間で揺れ動いている。それは聖性と背徳のせめぎ合いであり、時に「理性の監視者」が沈黙する瞬間こそが、最も劇的な転換点をもたらすのである。性的衝動の目覚めとは、単なる肉体の昂ぶりではなく、我々が自らの奥深くに潜む「存在の本質」と向き合う瞬間である。
この世のすべての芸術、すべての文学、すべての詩は、この瞬間の発露によって生み出されてきたのではないだろうか。フィレンツェの彫刻家が大理石に刻んだ優美な裸体も、パリの劇場で朗々と語られる台詞も、画家がキャンバスに塗り重ねる情熱の赤も——すべては、この衝動の成せる業なのだ。
だからこそ、人はこの衝動を恥じる必要はない。それは生の証であり、詩の源泉であり、創造の起点なのだから。
フォトエッセイ 「恥ずかしいです・・姿を見られるのが怖いです」
フォトエッセイ「すべてが一夜にして彼女の手の中からこぼれ落ちた」
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「これが私なの?」鏡前で身を晒した・・
部屋の中には、一面を覆う大きな鏡が立てかけられている。その鏡は古いもので、縁には細かな彫刻が施されており、どこかアンティークショップの香りを残していた。照明は柔らかく、黄昏時のような色合いを放つ。その前に立つのは、一人の女性。彼女の年齢は30代半ば、髪は短く切り揃えられ、肩にかかるかかからないかという微妙な長さだった。
彼女はシャツのボタンを外していく。ひとつ、またひとつ。自分の動作が鏡の中で反射するのを眺める。ボタンが外れるたび、肌の露出が増える。まるで何かの儀式のように、彼女は静かで慎重な手つきでその行為を進めた。シャツを肩から滑らせると、それは床に落ちた。音は驚くほど軽かった。
彼女は立ち尽くし、自分の体をじっと見つめた。鏡に映る自分自身は、いつもよりも他人に近い存在に思えた。肩のライン、鎖骨の微かな凹凸、腰の曲線。彼女はそれらをひとつずつ観察する。見慣れたはずの自分の体が、今夜はどこか新鮮だった。まるで初めてこの体を手に入れたような、不思議な感覚が彼女を包んだ。
「これが私なの?」
思わず呟いたその声は、部屋の静寂に吸い込まれた。
彼女は手を伸ばし、自分の腹部に触れた。皮膚の感触は冷たくもなく、温かくもない。中立的な温度だった。指先が滑らかに動き、そこにある小さなほくろを辿る。そのほくろは、彼女が20代のころから存在していたが、気に留めたことはほとんどなかった。今夜、それは突然、彼女の物語の一部のように感じられた。
彼女は次に目線を上げ、自分の胸を見る。小さい頃からその形には満足していなかった。もっとこう、他の誰かのように魅力的であればと願ったこともある。それでも、年齢を重ねるごとに、この体に対する感情は変わってきた。愛おしいとはまだ言えないが、少なくとも受け入れる努力はしている。
鏡の前に立つことは、彼女にとって単なる日常の一部ではない。そこには何か特別な意味が込められているようだった。自分の姿を見つめること、それは彼女にとって、何かを確かめる行為だった。美しさでも、若さでもない。もっと根源的な、自分がここにいるという確証を得るための行為。
その夜、彼女は鏡の中の自分と対話をした。声に出すことはなく、ただ視線だけで。そしてその静かな対話の中で、彼女は少しだけ、自分を許せた気がした。

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フォトエッセイ «Девочка в тонкой ткани»
フォトエッセイ „Das Neugeborene in meinen Händen“
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