FBとこのブログのインサイトから・・

僕の作品が

世界の何処のエリア(国)から、より多く検索されているか?見られているか?

を、フェースブックとこのブログの(インサイト)から割り出してみた・・

フォロアーの数を人口で割り、およその数値を基にしている

人口というより、ユーザー数で割るのが良いのだろうが、そこまでのデータがない

多い順に挙げていくと・・

フランス、イタリア、メキシコ、スペイン、日本、トルコ、イラン、ポルトガル、アルゼンチン、台湾、タイ、イギリス、アメリカ合衆国、カナダ、ドイツ、ポーランドなど・・

ただし、人口が1000万人以上の国でないと、分子数が少ないので、載せてません

多いのがラテン系のエリア、フランス、イタリア、スペイン・・

地中海周辺(アルジェリア、チュニジア、エジプトなど)も含む

また、メキシコなど中南米からのフォロアーも多いが、

ゲルマン系の人たち、北欧系の人たち、

倫理観の強いと思われる国々から、宗教色の強い国からは少ない

インドからも多いが、何といっても分母が13億であること、

ネットの普及がまだまだなことなどが理由で、

絶対数はそこそこにあるが、割合としては上位に来ない

ここで気がかりなのが、本国(日本)でのフォロアーの割合が低いこと

お隣の韓国からはさらに少ない

香港からのフォロアーはあっても、

本国(中国)からは0に近い、遮断してるというネット事情があることだから・・

使用言語別に並べてみると(これは、割合でなく絶対数)、

英語(英語+米語)、フランス語(アフリカではフランス語を公用語としている国も多い)、スペイン語(スペイン本国+スペイン語圏)、日本語、イタリア語などの順になっている

ところで、この写真について・・

観る人によっては違和感があるかもしれない

モデルの体脂肪率が極端に低いこともあって、

あばら骨、筋肉の盛り上がりなどと一緒に、ふくよかなバストも写り込んでいる

僕は”普通じゃない”ので、この画像をとっても気に入っている。

 

 

 

 

 

Why do many photographers tend to be stoic?

なぜ、多くの写真家がストイックな傾向になるのか?

カラーフィルムが出てくる以前は、モノクロであることは当然なのですが、

展示会などでは、未だにモノクロ画像も多く存在する

(彩度、明度、色相という3要素の中の)彩度と色相を切り捨て、

明度だけで画像の”表情”を創ろうとする

そこには、二つの理由があると思っている

1つは、色を切り捨てることによって、明暗だけに絞り込もうとするストイックさにあり

もう一つは、色という要素を考慮するとなると、撮影は限りなく難しく、

また、編集段階においても”面倒”なことになるから・・

(言うまでもなく、木炭デッサンが美しいことと同様に、

モノクロ写真特有の美しさはある)

この撮影では、スタイリストは使わず(予算的に使えない)、

モデルと私の二人で作品創りに臨んでいるが、

背景の屏風、着物、床の畳、モデルの口紅、マニキュアなど、

全ての色合いを考えることは非常に難しい

写真家なら誰でも知ってることですが、

目の前で見る”光景”と写り込むデータとでは、全く違う

ライティングされた中で、どう写り込むか?を想定しなくてはならない

この画像は、彩度を少し抑えているが、それ以上の編集はしてない

かなり、原画に近い

ちなみに、この画像をモノクロにすると、かなり退屈な写真になる

カメラの設定も、モノクロにしたことはないし、これからも、そうしようとは思わない

影がどう写り込むか?でライティングを決めるが、

明暗よりも色合いで撮っているような気がする

”写真道”なるものを説く人はいるが、私にはよく分からない

写真は(従来の概念としての)写真ではなく、どこまでもアートであってほしい

美意識が写真を撮らせることは確かだが、哲学や倫理観が写真を撮らせるといことはない

ただ、写真の中に(撮った人の)人として踏み行うべき行動の筋道、人としてかくあるべきという理想、倫理観なるものが見え隠れすることはあっても・・。

 

 

 

 

 

 

健康な人ですが、野暮な人です

こういうポージングでの画像は少ないのですが

細かな筋肉の盛り上がりなどが見えることもあり

造形美として、かなり興味深いと思いませんか?

この画像を見て、「右横位置から見たら、どんな図になるのかな?」

と、言った人がいましたが、僕はこう応えました・・・

「そんなあなたは、とっても健康な人ですが、残念ながら野暮な人です」。

「作品撮り」だけでは食ってはいけない

写真の評価基準または、展示会などの選抜基準・・

写真がアートであることを前提とするなら、

そのような基準を語ることにも意味はないことですが・・

文学や歌には言葉の壁がありますが、写真には壁というものは存在しません

この壁がないことがビジュアルアートの何よりの強みであり、シビアな世界でもある

地域性(国境)を超えてシェアされていくときに、

評価・選抜基準、人気指標なるものは必然的に生じてくる

専門的に評価をするのは、

キュレイター(学芸員、評論家と訳してよいのか?)、ギャラリー運営者、絵画なら画商

いわゆる、”目利き”の存在

キュレイターに認められて、展示会やギャラリーに紹介されることもあれば

ギャラリーからの直接的なオファーもある

この”目利き”と言われる人たちがどんな人たちか?と言えば、

新たな才能ある写真家を見つけ出し、世に知らしめ、評価を高め、

より高い値段で作品(写真)を売ること・・・

当然のこととして、経済的に成り立たないことには手を出さない

1000ユーロ位までなら、普通の人にも買えるが、

3000ユーロ以上となれば、コレクターと言われる(一部のお金持ち)しか、手が出ない

これらは、ヨーロッパでの基準であり、

アメリカならば、同様な評価の作品でも2倍近い金額で取引される(僕の推測ですが・・)

じゃ、売れる写真というのはどういう写真なのか?

クオリティーが高い作品ということは当然として、

その写真家でしか撮れない写真であること、何よりも個の持つ美意識が勝っていること

たとえ、クオリティーが高くとも、

以前にどこかで見たような写真であれば、売れる以前に評価もされない

・・・シビアなのは、これらの評価がグローバルな基準にあること

”目利き”と言われる彼らは、インターネットで世界中を網羅している

それから、お気に入りの作品を購入することは当然ですが

コレクターの多くは投資として写真を購入していること

・・・将来、値が上がるかどうか?

また、既に高い評価を得ていて、

購入してもその値が下がらないと考えていることなど・・

ただ一つ確かなことは、

フォトグラファーは「作品撮り」だけでは食ってはいけないこと

一流と言われる写真家を多く知っているが、

「作品撮り」だけで生計を立てている写真家に会ったことはない。

 

ポートレイトを撮り続ける理由

富士山をふもとから見上げると、その雄大さには他に類を見ないものがあります

ですが、僕の”腕”では、その雄大さはどうやっても写真に撮れません

ところが、ポートレイトでは、細身でしなやかなモデルさんも

このように雄大に撮れるのです

そこに、ポートレイトを撮り続ける理由の一つがあるのかもしれません。