Mone Anri 美術モデル&フォトモデル 

Anri Mone :日本の美術モデル&フォトモデル  上の作品は2020年11月に撮影したものであり、最新作となっている。 カテゴリーは「美術&フォトモデル」となっているが、Anri Mone 作品集である。

Anri Mone への美術モデル&フォトモデルの依頼・・・

Anri Mone [official ] : https://moneanri.wixsite.com/monet/tetsuro-higashi

model : Mone Anri https://moneanri.wixsite.com/monet

1番目に出てくる写真は・・

日本で最高の写真」として選ばれてます。

model: Mone Anri

https://strkng.com/de/japan/

これから、写真を始めようとする方々へ・・

写真には大分けすると、「商用写真」とアートとしての「作品撮り」というのがあって、全く別の物とも言えるし、ファッションなどの分野においてはそんなに変わらないこともある。 簡単に言えば、商用写真にはクライアントがいて、そのクライアントの意向・リクエストを満たしていないといけない・・この場合は、とにかく上手でないといけない)。 方や、作品撮りの場合はあくまでも「自己表現」なのだから、自分の世界観を創っていかないといけない。 どちらが難しいか?ということになると、日本のレベルは良く知りませんが、海外へ出れば、どちらもむちゃくちゃレベルは高い。 

私は商業写真家ではないので、展示会などへ出るための「作品撮り」について大切なことを記したいと思います。 

技術的に上手いというのは、学べばできることであり、経験値を上げればそれなりに腕は良くなると思います(センスが良いかどうかは別問題ですが)。 ところが、作品撮りにおいては上手いか下手か?ということじゃなく、良いかどうでも良いか?という世界であり、展示会などでは観る者の足を止められるかどうか?ということです。 音楽であれば伝わる音楽じゃないと意味がないように、ビジュアルアートの世界では観る者を魅了するような作品でなくてはなりません。 

では、どんな作品が観る者を魅了するのか? 展示会で観覧者の足を止められるか? ということ。 (可愛いでしょ、寂しいでしょ、悲しいでしょとか、、、他人の目を意識して)媚びてないこと。 表現する世界ではこの「媚びてること」が最低なことなのです。 カラオケで、プロ気取りにビブラ~ト効かせた喉を震わせて聴かせようとするオッサンがいるでしょ、あれと同じなんです。そこに居合わせたくないでしょ。 上手く見せようとする意識自体が作品をダメにします。 

この国では通用するかもしれませんが、パクリもダメです。 海外では通用しません(彼の地のキュレイターや批評家は、ネットなどで世界中の作品を網羅してます。 また、彼らは、パクったものとオリジナルなものを区別する目を持ち合わせているのでしょう)。 だから、「世界で一つしかない個性」でないと大きな舞台では通用しません。 ちなみに、魅了するものであれば”個性”ですが、そうでないなら、単なる”癖”です。 

「世界で一つしかない個性」というと、ほとんど不可能なことじゃないか・・と思われるかもしれませんが、可能性は無限にあります。 皆が同じ面を同じ方向から見ているから、やり尽くされているように感じるのです。 面でなく奥行きのある立体と捉えると良いです。 今の立ち位置を横に少しずらして見てください。 そこから見える世界は隙間だらけで無限の可能性が見えてくるはずです、また、感じられるはずです。 自分の普段の立ち位置を少しだけ横にスライドしてみるだけでよいのです。

ところで、「スライドさせる」ことは、言葉で言えば簡単ですが、実際にはどうするのか?とても難しいことと思います。 例えば、自然でも人物でも、一番魅せられる部分だけをヒューチャリングして、アングルなど考えずに撮ってみましょう。 そして、トリミングする際は、トリミング枠を周囲から狭めていくのではなく、中から広げるようにトリミングしてください。 今までとは全く違った写真になるはずです。 ですから、アングルとトリミングに関する心得を変えるだけでも、全く違った結果が得られます。 

既成概念を外していきましょう・・ そもそも、アングル自体が既成概念なのですから、そのアングルの中くらいは既成概念を無くしましょう。 (無限に広がる写真というものは出来ませんから、仕方なく長方形のアングルの中で作品を収めようとするのです)。 自分が魅了される対象を魅了される位置から捉えることです。 その際も、決して上手に撮ろうなどと思わないことです。 アングル内に上手に収めようとする意識から解放されない人は、永遠に魅了する写真は撮れないと思います。

 

ここから下3枚の画像は、仕上げの段階で「ソフト加工」をしてます。 人の目(視覚)というものは面白いもので、ぼやけたものを見ると目を凝らして一生懸命見ようとします。 結果として、画像としてはより魅了するようになったということ。 「ソフト加工」をすれば、物理的にはぼやけて、画像は劣化しますが、心理的にはよりリアリティーを増していることになります・・より魅了する画像になります。 風景を見るにしても、天気の良い日に見るよりも、霧立ち込めてぼんやり見える方が神秘的な印象を持つことと同じなのですね。

年寄りの話になって申し訳ありませんが、50歳を過ぎたあたりから耳鳴りがするようになります。 そのことで脳に異常があるのではないか?と思い、病院へ行く人がいるのですが。 実際のところは、歳をとれば少しづつ耳が遠くなってきますから、聞き耳を立てて、一生懸命聴こうとするわけです。 そうすると、実際には聞こえない音までキャッチしてしまい、静かなところにいても、ジージー、シャーシャーと途切れることもなく聴こえてくるということらしいです。 見えずらければ、より頑張って見てしまう(魅入ってしまう)ことと同様なのでしょうね。

「デフォルメ」 カメラの特性の一つにデフォルメという現象が起こります。 この画像で言えば、実際以上にお尻が大きく写ってます。 視点(カメラ位置)をお尻側にすれば、このような画像になるわけですが、人の目にも実際はこのような図に見えてるにもかかわらず、人の意識というものが勝手に像を矯正して、このようには見ていません。 だから、写真とか絵画のデフォルメした画像が面白く見えるのでしょうね。

現実は両目で見ますが、写真は(レンズという)片目で見て撮ることになります。 人の目というのは良く出来ていて、暗い処では瞳孔を開き(光の量をたくさん取り入れ)、明るいところに出れば逆の反応をします。 焦点距離も同様に見ようとする物に自動的に合うようになります・・これらのことは、カメラで「オート設定」にした状態と同じです。 両目で見れば距離感がありますが、片目では距離感は出ません。 だから、写真では距離感が出ないので、物の大きさの絶対値で判断するようになります。 したがって、お尻がより大きく写り込むように見えるわけです・・現実では両目で見るので、距離感が生じ、脳のどこかで勝手に修正して見ているのでしょう。 写真好きには、その矯正したり修正したりする行為の中に「想像・創造」という面白さが生じているのでしょう。 

撮影という「行動の本質」を探るには、男性が女性と恋愛することに例えると分かりやすいです・・ 男性が女性をイメージすることの基になるのは、多分に母親のイメージですね。 初めての恋愛では、母親と全く違う女性を見るわけですね(親子関係でなく、恋愛ですからね)。 そのギャップに恐れおののき、女性を苦手になる男性もいれば、ますます好奇心旺盛となる男性もいます。 多くの男性は、最初に付き合った女性のイメージ(女性とはこういうものだ・・)と思い込んで、引きずって、次の女性とも付き合おうとするのですが、ほとんどの場合、最初の経験は通用しないわけです(相手が変われば、全てが変わりますから、痛い想いもするわけです)。 場数を踏んで経験値を上げ、前知識を増やすことは大切なことですが、それだけでは、肝心なことが落ちてます・・同じ条件で同じ場面というのは二つとありません。 撮影する際はいつも初心に帰ること・・恋はいつでも初舞台です。 表現の世界においての”慣れ”は、時として最悪な結果を生みます。

商用写真は、多くの人が見るので特に個性的な画像である必要はないが、多くの人から良い写真と見える(分かりやすい)ことが必須となる。 ところが、作品撮りであれば、多くの人から認められるような写真である必要はなく、100人に1人でも自分の写真が凄く良い!と思う人がいれば十分という世界。 ですから、このブログを観て、(僕は)1000人に1人が素晴らしい!と思ってもらえれば、それだけで十分満足できる。 真に良い作品は万人には受けませんから。 また、もう一つの言い方をすれば、商用写真はその時々にキャッチーであればよいわけで、「作品」として後に残るのでもない・・消費文化なのですね。 その意味では、「作品」は長く残るものにしたい。

展示会へ出展するための画像・・その展示会の在り方にもよるので、分類してみると・・作品を一枚出すのであれば考える必要はないが、複数枚展示するのであれば、あれやこれやと出すのではなく、纏まりが必要。 どういう纏まりか?というと、例えば、5枚で一つの作品になっていること。また、一連の画像が一つのストーリー性があること。 セレクトの難しさがありますね、自分のベストの作品を5枚並べればよいということにはなりません・・観ていて、ちぐはぐになり、それぞれの作品の良さが伝わってきません。

上の作品群は、体に水を噴霧して、その上から小麦粉をかけた状態で撮影してます。 背景にも同様な処置をしてます。 僕がモデルの全身に小麦粉を塗した覚えがあります。 たぶん、その際には、モデルの体を僕の手が触っているのでしょうね、でも、記憶はないのですよ、制作中のことは。

上の二枚の画像は、僕のベスト作品集に入る。 シンプルさが際立っている。ただし、アングルは僕特有のへんてこりんな切り方で、他のフォトグラファーから見れば、非常識ということは承知している。

僕の作品撮りのスタンス・・作品(画像)はアートそのもので在りたい。 絵画で言えば、後期のピカソのような作品でありたい。 ピカソに詳しい方は知っていると思いますが、晩年の作品には「ストーリー性」はありません。 私も、アートそのものでありたいと思うことから、出来る限り、ストーリー性は排除したいと考えてます。 ちなみに、「写真」の世界では、「ストーリー性」は大きなテーマでもありますし、それがないものは写真として意味を持たないと考える人たちさえいます。 

テーマは「花魁」 複数のフォトモデルさんに花魁を演じてもらっていますが、そこでは様々な花魁が出来上がる。 「花魁」をどうとらえるか、あるモデルにとっては花魁に成り切ることによって、また、あるモデルによっては、ヌードアートの一つの在り方として演じているのか、私が「コメント」することは難しい。 ご覧になる方が、どのように観るか、お任せするしかない。 

上の花魁の衣装は、古着屋で10万で購入した。 原価は250万するらしいが、映像関係の不況もあり、かなり状態の良いものを安価で購入できたと思っている。 桂、屏風、衣装などはすべて本物を使っているが、小物類などは本物だと高くて手が出がないので、安価なもので我慢している。

江戸時代と現在では平均寿命も成熟度もかなり違うので、年齢で比較することは難しい。 当時は、花魁の周囲の雑用をするために貧しい農家などから買われてくるのは10歳前後の女子で、13,14歳位からデビューしたと言われている。 芸事を学びながら教養を高めることが人気のある花魁になるための修行であると考えられていた。 現在の「義務教育」が始められたのが明治初期であるが、日本とイギリスがほぼ同時期であり、世界で最も早かったと言われている。 江戸時代の遊女の世界であっても、教養と芸があることが最も大切であると考えられていたことは、古来からの日本文化の豊かさを妙実に物語っている。 花魁を単に「性の奴隷」と考えるのは見当違いであることが頷ける。 

 

上の画像のようなポーズをとるモデルさんとはどんな女性なのだろう? と、想像される方は多いと思いますが、彼女の性癖、趣味、嗜好などは撮影中、話題にすることはないので、ご想像にお任せするしかない。 ・・どちらにしても、アート系の人は変態ばかりなので、何があろうが驚くに値しない。 

アートの世界では、「文化的」と「変態的」とはほぼ同義であり、「普通に健康的な人」と「動物的な人」もほぼ同義と考えている。 性的好奇心ばかりが旺盛な人は、より動物的であり、健康な人なのだろうが、残念ながらアートの世界では「野暮な人」になってしまう。 性的好奇心を超えた向こう側の世界を想像・創造できる人こそが文化的であり、概して”変態的”なのです。 変態と言っても、多種多様ありまして、聴いてびっくり、見てどっきり、知ってまさか!・・の世界です。 変態な人は概して自分が変態であることを自覚してますが、たまには、自覚してない人もいる。 アート(芸術)関係の人は、僕の知る限りでは変態ばかりで、普通なのは僕くらいです。

布などを羽織ったのもから、絵画を背景にしたもの、など。

薄く色彩の入ったものからモノクロームまで、全てヌード作品となっている。 立ちポーズや寝ポーズはほとんどなく、テーブルの高さ程度に乗った状態で撮影されている。 

造形美を撮ろうとするなら、写真家は視覚的好奇心全開で、瞬時に位置を変えながら撮りまくればよいと思う。 この場合の心得はただ一つ、ポーズを止めた瞬間にシャッターが落ちるようにすること(モデルがポージングするリズムに合わせながら、フライイング気味にシャッターを切っていく)。 良くない例は、「そこで止めて!」と写真家が声をかけ、止まった状態でシャッターを切ること(人の体は、止めた瞬間は筋肉・腱などに張りがあるが、3秒後には弛んでしまい、作品は”死んで”しまう)。 何でもないことなのですが、造形美・視覚的美を追求するなら、このことだけは心に留めておきたい。

モデルがポージングするということは、頭のてっぺんから指の先まで(モデルの)意識が行き渡っていないといけない(全身で絵にしないといけない)。 このような意識は、ダンサーや舞踊家は習慣付けられており、苦も無くやってのけるが、全身をトータルで魅せることをやったことのないモデル(被写体)はそうはいかない。 どこかが弛んだり遊んだりしてしまう。

確かに、ハイレベルなダンサーや舞踊家は絵にしやすい。 だからといって、作品にしやすいか?というと必ずしもそうではない。 ”仏作って魂入れず”みたいなことが起こってくる。 視覚的美を追求するならそれでよいが、知的好奇心を(観る者に創造させ)思い起こさせるような作品にするには不十分である(ポージングの良さだけでは、魂は感じられない)。 アートである限り、最後は心意気(魂)で勝負することが望ましい。

ところで、トータルで全身を魅せる心得のないモデルの場合、作品にするまでに時間がかかる。 才能(センス)があるモデルなら、シャッターの切れるポジションを心得るようになり、どんどん絵になり始める。 ポージングに関する既成概念がない分、より個性的かつ独創的になり、素晴らしいアート作品へ結びつく。 このブログで特集する「モデル・被写体」は(現時点において)後者の例ばかりで、それまでに全身を魅せる心得のないモデルばかりである、偶然かもしれないが。

私が過去に撮影したモデルの中では、体のバランスが素晴らしく良い。 上の画像でも分かる通り、あばら骨がうっすら写り込み、リアリティーのある作品となる。 僕の撮影画像では、顔の部分を載せないことがあるのですが、それには理由があって、顔は多くを物語るので、造形美を見せようとすれば邪魔になってしまうこともあるからです。 

モデルと写真家の相性・・・最近、やっと相性が良くなってきたいうのが”本音”ですかね。 彼女は「自然体」であろうとしていたようで、僕の側は「ある種の意志」を持った作品にしたいと思ってきたからだろうか。 実際のところ、彼女が僕に合わせるようになったのか、僕が彼女に近づいたのか、両者が落としどころを見つけたのか・・は分からない。 結果、良い作品がどんどん出来上がってきているので、それでよいのかと思う。

「自然である」ことの定義付け・・西洋と日本の違い。 西洋では、自然は無秩序なものであるから、人間が秩序立てるという考え方をする。 風景画を描くにあたっても、山や木々、海や川などを在りのまま描こうとはしない。 自然までをも(人様が)秩序立てるという考えが(根底に)存在する。 方や、日本においては、自然自体が尊く美しいものであるから、自然の在りのままを描写しようとしてきた。 意識の根底には、人は自然の一部であり、人さまが介入する余地はないと考えるからなのだろう。 西洋では人間様が最も尊く、自然は時として驚異であり、決して有難いのでものではなく、いかにして自然をコントロール下に治めるか?と考えるようだ。 日本では、自然と人間には分け隔てもなく、優劣なども存在しなかったと思われる。 アートの世界においても、”このような認識”を心得ていないと、真の理解は得られないかもしれない。 

21世紀に至っては、これまでの「自然観」は西洋でも東洋でも変異しつつあり、文化のフローバル化が進み、相互にかなり近いづいた感がある。 ・・というより、東洋的自然観が時代の潮流になってきたようだ。 環境汚染が続き、自然をコントロール下に治めようなどとする”思い上がり”には、終止符を打たないとならないと考えるようになったのだろう。 





モデル ( Anri Mone ) の投稿から・・

Anri Mone [official ] : https://moneanri.wixsite.com/monet/tetsuro-higashi

モデル ( Anri Mone ) の投稿から・・
「ポージング」
 
東さんとの撮影で、休憩中に衣装で遊んでいたら
「君は遊んでいる方がいいね。そのまま撮るよ」ということがあった。 
リラックスしてるとき 
スイッチが入ってるとき 
身体が仕上がってるとき 
身体の調子がいいとき 
要は気分がいいとき。 
そんな時いいポーズが多い気がする。

「顔」  顔は変わる。 
初めましての人とお話をしたり愛想を振りまいてきた日には顔が出来上がっている。 
自分で言うのもなんだが、可愛いのだ。 
そう瞬間的にも変わるがじっくりと変わることもある・・・実家でアルバムを見て衝撃だった。
 小学5年くらいの自分がものすごく不細工だったのだ。 
雰囲気というより物理的に違う。 
思うに自分のことをどう思っているかが如実に顔に出てくる。  
・ 恋する乙女が綺麗なのはマジなのだ。
 片思い中でも綺麗になろうと努めて周りから「最近益々綺麗になったね」とか言われ始める。 
両想いになったらなったで「可愛いね、綺麗だね」の愛のシャワーを浴びる。 
「自分は綺麗」が定着する。  
・ 友人(特に同姓)との写真をみてもあんまり綺麗に映ってない。 
高校、大学でオドケ役、変態役だった私は写真でも何となくオドケている。 
日常で撮られる写真はだいたい変な顔をする。 
きれいな笑顔はちょっと苦手なのだ。

撮影することに関する(私の知る範囲での)事実と真実を書き記してますが、ここに書けることは8割がたのことであり、2割のことは書きませんし、書けません。 プライベートに関することであったり、書かない方がよいと判断して書きません。 後は、個々の経験によってキャリアを積んでいってください。 

ブリッジしたところを斜め上から撮っている。 私はこのようなアクロバティックな絵を撮ることは少ないが、改めて、ライティングの難しさも実感している。 

上の作品のような、一枚の画像の中に「ふくよかさと骨っぽさ」の対比をテーマにした作品創りを今後も続けていきたい。 偶然とはいえ、今後の”道標”となるような作品が出来上がってくることは、モデルにとっても私にとっても、「新たな挑戦」が見えてくるようでもある。 光の中でどのようにすれば魅了する像が生まれてくるのか、モデルにも私にも新たなテーマである。 日常的には、肉体の造形が像を創るが、撮影現場では、光の置き方で像が創られる。

「ボディーペインティング」 この撮影では、私は女性の体全身に絵を描き、そして撮影する。 肉体的にも精神的にも半端ないエネルギーを消耗する。 もちろん、モデルも両手を上げた状態で両足を開き、固定ポーズを1時間半位は続けなければならない、これも大変なこと。

2020.9 に撮影。 ロケーション:京王多摩川河川敷

数少ないアウトドアでの撮影。 ロケーションは多摩川河川敷。 たぶん、9月の末だったと思います。 夕日を背景に撮影しようと思い、午後4時すぎくらいから現地に入りました。 ところ、その日は曇りで空は夕日で赤く染まらない。 また、河川敷の中央部とはいえ、向かいの川岸には釣り人の姿もちらほら見える。 この画像のように、草むらに入った撮影はよいが、川の流れを背景にした撮影は(向こう岸から見えてしまうので)スタンバイが出来ない。 下の画像は、周囲がほぼ見えないくらい暗くなってからの撮影。 ご存知の通り、ISO設定を6400位に上げ、視界ではほぼ見えないような被写体を撮影したことになります。 デジタルカメラの性能へ感謝!

 

下の画像は・・この時点で午後4時、まだ明るい時間帯。 中洲の河原に入り込んでの撮影でした。

このモデルさんとは、これまでに10回以上の作品創りを続けてきた。 これからも、ずっと続けていいくことになる。 作品創りに年月を重ねていくことは、それ自体がストーリーとなり、壮大なドキュメンタリーとなるのだろう。

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花魁の衣装とAnri Moneが繰り広げる

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