



他のページでも書いているが、現在の私は70歳を過ぎている。 50歳から絵画を始め、60歳から写真を撮るようになった。 私は、50歳を境にして、アートを見る人から創る人にかわった。 そして、”人前に出ない人”から”どんどん出る人”に変貌していった。

何がきっかけとなったかは、フランスに住むキュレイターがFBで僕を”発掘”したこと。 大使館を通して僕に出展のオファーが届いたことから始まる。 写真を始めてから5年目になるころであった。 イスタンブールでの世界的な展示会であった。 出展者は既に巨匠を言われる人ばかりで、私だけが無名の、それもアジア人であった。

そこで得られたものは、”写真がアートであって良い”ということを実感できたことだ。 その後、「アルルの国際写真祭」にも推薦され、ますます加速がついてくるようになる。 その年の「Photo in Beijing 2016」に招待され、中国の人たちの熱い眼差しに圧倒されることとなり、コロナがなければ、中国の展示会と講演会に私のエネルギーを向けていたと思われる。

今、私は、人生の70~90歳をどう生きるか?を考えている、そして、向き合っている。 70年生きられたことに素直に感謝している。 そして、余生を静かに生きようとは思っていない。 既に失いうものは無くなったので、”暴走”しようと、覚悟を決めている。 金銭面の余裕はないので、アートとは無関係な仕事と”二足の草鞋”を履くことになる。 仕事とアート活動を並行してこなしていくことは、私の年齢では、ほぼ暴走に近い。 いわゆる、休みの日は一日もないのです・・

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私の年齢になると、年に2%の割合で人が亡くなっていく。 簡単に言えば、50人に1人はこの世を去り、いなくなるということ。
コロナは5000人に1人が亡くなるわけだから、僕にとってのリスクはほぼ無視してよい数字なのです。

60歳を過ぎたころから、一年に一段ずつ階段を下りていくように、出来ないことが一つずつ増えてくる。 今まで当たり前に出来ていたことが出来なくなってくる。
この衰えてくる現象をそのまま受け止めれば、受け入れれば、誰氏も鬱になっていくことは当然と思われる。 このネガティブな思考から解放されるには、今まで以上に強い意志で前に進むしかない(私には)。
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では、私の人生の前半50年は何をやって来たのか・・過去を振り返ることは私の趣味ではないので、最近では、過去を想出せなくなってきた。 想い出せることは、子供のころから青年期にかけて何らかの“障害”があって、良い思い出はほとんどないこと。 その障害が悪化しないように努めて静かに生きてきたという言い方が真実に近いと思う。

なぜ、前半の50年間、モノ創りをしなかったのかは・・・絵を描けばそれが自画像であるように、常に自分と向き合うことになる。 この向き合うことを恐れて、向き合うことから逃げて50年生きてきたような気がする。 言い訳ではなく、これは多分に”正解”だったと思われる。 向き合っていれば、壊れていただろうし、今はこの世に存在してないと思われるからだ。 ‥・・私を良く知る人も”この”見解”に同意している。

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モノクロ画像 展示会
本来ならば、展示会で公開する画像をwebで展示してます。 たぶん、コロナの状況は数年続くような気もするので、展示会をネット上でしようとする試みです。
以前にも書いてますが、スマホで観るのとPCで見るのとでは見え方が全く違います。 アクセス解析によると、ここを見てる方々の60%以上はスマホで観てます。 載せてる私はPCで作業してるわけですから、少し戸惑いもあります。 スマホでは、縦長の画像は大きく見え、横長の画像は小さく見えてます。 PCは逆に見えます。

だいぶ慣れてきましたが、画像を縦に並べて展示することです。 展示会では横並びですから。
当然のように、FBやインスタなどには載せられない画像が多くなります、というより、元々、そういう画像ばかりを作品として残してますから・・
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ここに載せてる画像の多くは、2016~2018年にかけて撮ったものです。 勢いのある「良い作品」が多いですね・・自分の過去に嫉妬してます。
珍しく背中側から撮ってますね。

どうしてそうなのかは分かりませんが、正面から撮った画像が多くなります。 後ろとか横位置から撮ったものはかなり少ないですね、最近、気が付きました。

写真の怖い処でもあり面白い処でもあるわけですが、モデルの品性、知性、人としての誇り、そのモデルにしかない感性や個性、センスなどをそのまま撮りきってしまいます。
それ以上に怖いのは、写真家のセンスや感性なども見え見えになりますし、嗜好や性癖まで写り込んでしまいます。 また、そうでないと、写真の醍醐味もないのですが。

先日来られたモデルさんが、写真を教えてください‥ということで、一眼レフを持参して。 使い方が分からなので教えてください!ということで。 説明書読んだら?と言ったら、まだ読んでないとのこと。
正直なところ、カメラを教えたこともないし、どういじるかなんて考えて使ってないし・・感覚とカメラが一体化してるので、考えてないのですよね、撮影してるときは。
っで、僕は根っからの写真家ではないので、カメラから離れてしまうと、どういじるのかも分からないのです。
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モノクロというのは、白黒でなくても、単色ならば良いのです。







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ここから下の写真は、10年前に撮った写真で、ほとんど初心者の頃。
アングルも良いし、対象の掴まえ所も良いように思う。 今よりも、写真自体は上手であったようだ。


この当時は、ヌードを撮ることに、”男感覚の興味本位”というのがあったことを、今、画像を見ながら思い出している。
この撮影以降、写真との向き合い方が変わったことを覚えている。 写真の素晴らしさに気付いたのです。

同時に編集の面白さにも出会いました。
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自分が見たいものの瞬間を切り取れることのスリリングさも知りました。

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ここでは、”状態”の写真を多く載せてますが、私の興味は”動作”の写真へと移行していきます。

写真とは、被写体を止めて撮るもの・・という概念に縛られてましたが、これ以降は”動作”を撮るように変わっていきます。

写真には、その人のその時でないと撮れない写真というのがあって、”記録”することの大切さも知るようになります。
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art pose duo Anri & Yu

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私は、私のオフィスをアレンジしてスタジオにしている。 したがって、私は逃げ隠れは出来ないので、その意味では被写体となるモデルも安心して撮影に臨める。 モデルは私の前にヌードで立つのであるから、自ずとプライベートの壁は無くなるか、低くなる。 そうなると、普段なら話さないような話題にもなる。 そうなったとき、現在”幸せな人”というのがほとんどいないことに気付く。 過去からの不幸を背負った人、現在も不幸な人、多分これからも不幸の連鎖は続くものと思われる人・・とはいえ、幸せな人生を望んでいることも確かなのですが。 私から見れば、”幸せ”と言うよりは”裕福”な人生を望んでいるように見えます。 皮肉を込めて言えば、”幸せ”より”裕福”を望んでいることに”不幸”の始まりがあるようにも思えるのですが。・
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