鏡に私の姿を映してみる

model : kuroneko koyomi  instagram : kuro.neko216

鏡に私の姿を映してみる

朝、ふとした拍子に鏡と目が合うことがある。

着替えの途中だったり、洗面台の前で何気なく顔を洗ったあとだったり。そんな何でもない日常の中で、突然鏡が「今の私」をこちらに投げかけてくる。

今日もそうだった。

ふと顔を上げたとき、そこにはまっすぐに私を見つめ返す「私」がいた。
髪は少し乱れていて、目元には眠気が残っている。肌には年齢の積み重ねがゆっくりと現れはじめ、笑った痕跡がうっすらと刻まれている。
それでも、私はその姿を見つめながら、なぜか微笑みそうになった。

「ああ、悪くないじゃない」

以前の私なら、まずため息をついていただろう。
あれが足りない、これが足りない。
もっとこうすればよかった、もっと美しくなれたかもしれない、もっと強く、冷静に、賢くふるまえたらよかったのに――と、そんな「足りなさ」にばかり目を向けていた。
鏡に映る自分は、どこかしら未完成で、不完全で、物足りない存在だった。

でも今は違う。

そこに映っている私は、確かに欠けている。完璧なんてほど遠い。
けれど、私という人生を甘く、静かに、享受している。
痛みや後悔、失敗もたくさん積み重ねてきた。
それでも、それらすら愛おしい記憶として、この顔に刻まれている気がするのだ。

まるで、長年連れ添ってきた親友をふと見つめるような、
「よくここまで来たね」と、そんな声をかけたくなるような気持ち。
それが、今、鏡の前の私に向けて湧き上がってくる。

選ばなかった道、選べなかった未来、壊してしまった関係、守れなかった想い

nyataoshi through syuppo’s lens

「カメラに媚びないモデル」が持つリアルとフェティシズムの境界線

私がこの作品を撮影するにあたって最も意識したのは、「演出されていないように見える演出」という一見矛盾したコンセプトをどう写真として成立させるか、という点だった。古びた洋間、くたびれたレザーソファ、そして下着姿のモデルという構図は、一歩間違えればあからさまなエロスに落ちかねない。しかし、私が求めていたのはそういった類の視線誘導ではなかった。むしろ、モデル自身が持つある種の「無関心さ」や「放置感」、さらには「開き直ったフェチズム」こそを視覚的に記録したかった。

model:nyataoshi ( Instagram )  photographer : syuppo

「手業」への信仰と芸術観の違い

「手業」への信仰と芸術観の違い

日本において「芸術=時間と手間をかけて作られたもの」という価値観が根強いことも、写真と絵画の分離を促す一因になっている。絵画は、画家が筆を持ち、構想し、時間をかけてキャンバスに表現する行為であるのに対し、写真は「カメラのシャッターを切るだけ」という印象を持たれやすい。

もちろん、実際の写真制作は、構図、光、被写体、ポストプロセスなど多くの判断と技術が必要であり、単なる「一瞬の記録」ではない。しかし、その創作過程が視覚的にわかりづらく、また「機械によって生まれるもの」として誤解されやすいため、日本においては「労力が見えにくい=芸術性が低い」という無意識の評価がつきまとう。

これに対し、ヨーロッパでは近代以降の芸術思想において、「手業の有無」よりも「コンセプト」や「表現の新しさ」が重視されるようになった。マルセル・デュシャンが便器をアートにしたように、「何を表現するか」「それが時代や社会とどう対峙しているか」が重要視される。こうした思想は現代アートの根底にあり、写真もその文脈の中で当然のように「芸術」として受け入れられる。

この「芸術の基準」の違いが、写真の扱われ方に大きく影響している。

写真と絵画──日本と欧州における「アート観」の違いについて 

日本において、写真と絵画はしばしば「別のジャンル」として明確に区別されている。美術展においても、「油絵・日本画」「写真展」といったように展示そのものがジャンルごとに分けられ、また教育や批評の場面でもそれらは異なる系統として扱われがちである。対して、欧州──特にアート市場や美術館文化の根付いたEU諸国では、写真と絵画を「別のジャンル」としてのみならず、共に「アート」として並列に捉え、同じ美術的価値の土俵に置く傾向がある。

こうした違いは、単なる文化の差異というよりも、それぞれの地域における美術史・教育・社会的価値観の蓄積に起因するものだと考えられる。本稿では、その背景を歴史的・文化的な視点から考察し、なぜ日本では写真と絵画が明確に区別されやすく、欧州ではより統合的なアートとして認識されるのかを論じていきたい。 

「お尻に目が行くとき」

「お尻に目が行くとき」

西洋美術史の中でも、女性の背面像は繰り返し描かれてきた。ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』、ルーベンスの豊満な裸婦たち、近代ではエゴン・シーレの挑発的な後ろ姿。そこにあるのはエロティシズムだけではなく、生命感と存在のリアルが混じり合った「人間のフォルム」だ。

日常の視線でも似たような瞬間がある。例えば、街中で偶然すれ違った人の後ろ姿に、何か惹かれて振り返りそうになることがある。別にいやらしさを求めているわけではない。けれど、形、リズム、重心、そのすべてに「人間らしさ」が凝縮されているとき、視線は抗えない。

そして私は、自分が見ているのが「お尻そのもの」ではなく、その奥にある「フォルムと存在の魅力」だということに気づく。女性の身体に対する敬意、美しさへの素直な感動。芸術がそれを許すのなら、日常の中でも私たちはもっと素直に、人間の形を愛していいのかもしれない。

もちろん、視線には責任が伴う。無自覚なまなざしは暴力にもなり得る。しかし、見つめるという行為が、理解や感動の入り口であるのもまた事実だ。芸術に学ぶなら、「見ること」はもっと誠実であっていい。

お尻に目が行くとき、それは「美しさに出会った瞬間」なのかもしれない。そしてその視線が、単なる欲望で終わらず、理解と感謝へつながっていくのなら――私たちは、もっと自由に、もっと深く、「見る」ことができるのではないだろうか。

終末のイメージと向き合う

終末のイメージと向き合う

「このような悲惨な終末的なイメージを受け入れることができる人は、達観した精神を持ち合わせる人か、心底、楽観的な人かもしれない……」と、ふと思った。

しかし、そう考えた次の瞬間、むしろこう思わずにはいられなかった。
本当は、そういう人たちは、すでに何かを諦めてしまっているのではないかと。