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初心者だったころ・・10年以上前かな。
Tetsuro Higashi Photograph Y

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デジタルだから、写真を始めたわけで、
フィルムで現像だとか・・無理だから・・
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世代は3層に分かれる・・30歳まで、30~50歳まで、50歳以上。 今回のウクライナ紛争でも分かったことですが、ロシアの国内では、国営放送と国の都合の良いニュースばかり流すメディアがある。 その影響をもろに受けているのが、冷戦が崩壊した時期を経験してる50歳以上のプーチン支持層。 彼らは、プーチンが正しく、ロシアを守ってくれると信じてます。 ところが、30~50歳くらいの層では西欧諸国の自由を知っている。 30歳以下では、ネットにより、”世界の常識”を手に入れることが出来る。 50歳以下の層はプーチンには懐疑的な人たちで、デモなどへの参加者も多いが、弾圧で刑務所送りになりますから、表立って、主張することは難しい状況です。
日本でも同様なことがあって、憲法第9条を守れば、平和が維持できると信じている人たちも多くいる・・この人たちの多くは50歳以上で団塊の世代が多い。 岸田首相は「改憲」を謳っているが、朝日や毎日なども改憲には反対なのだろうが、この期に至って、なぜそこまで愚かなのか信じがたい。 アメリカの核の傘に入っていれば、守ってもらえると信じているのでしょうが、アメリカが応援しにくれるのは、本気になって自国民が戦う国だけです・・今回のウクライナでも証明されましたね。
現在の同盟関係の中では、核シェアリングすることは最も強固な同盟関係です。 現在、アメリカと核シェアリングしている国は、オランダ、ドイツなどですが、自国では核装備はしないが、アメリカの核を持ち込んで、有事の際は共同使用することになってます。 ・・これが、本当の抑止力です。 非核三原則、「持ち込まず」だけは削除したいですね。
Tetsuro Higashi Photograph Y

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この写真を撮ったころは、まだ初心者だったこともあって、”客観性”と言うものがなくて、自分がどんな写真を撮っているのかが分かりませんでした。 たぶん、12年前に撮ったのでしょうが、自然な感覚で、背負ったところもなく、なかなかの作品となってますね。 今の自分が、12年前の自分へ、「才能あるら、頑張ってみたら・・」なんて、声をかけてあげたいくらいですね。

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Tetsuro Higashi Photograph Joy

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バランスが良いことよりも、アンバランスだから面白い。 この女性は、バストは大きいがお尻が小さいので・・と言っていたことを思い出した。

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Tetsuro Higashi Photograph Z

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老年の悲観というのだろう、わが命の陰りを感じることがある。
人生とは後戻りできない先の見えない一本の道・・と言われる。
今、その道のどの辺にいるのか、私には分からない。
死は誰にでも平等にやって来ることだが、
それを”旅立ち”とするのか”消滅”とするのか、いや、私は”解放”と捉えたい。
現世ではたくさんの“荷物”を背負ってきたので、
それらから解放されると考えた方が、静かに死と向き合えそうなのだ。

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Tetsuro Higashi Photograph X

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「現実と理想」
現実とは、核武装してないと他国からい攻撃される可能性は常にあること。 ウクライナの件で現実となり、ロシアと国境を接しているフィンランド、そのお隣のスエーデンもNATO入りを検討している(核を有する集団的自衛権を持つため)。 ここで、忘れてはならいのが、我が国もロシアと海を隔ててはいるが、国境を接していること。 地政学的に、ロシアと北朝鮮、中国に囲まれているわけで、特に中国の勢いは止まりそうにないので、世界中で最も危険地域とされてます。
理想とは、核は永久に放棄し、出来れば兵器などない”理想の国際システム”を構築すること。 犯罪者はいなくならないので、軍隊はいらないが警察力は必要。 この考え方は、一見すると”理想”に見えますが、地球がグローバルに共通な価値観を持たないと成り立ちません・・・それって、”全体主義”と表裏一帯なのですが。 個人の自由、思想、宗教の自由もなくなり、現在の中国のような状況になります・・
僕は現実的にものを考えるので、前者を支持します。 イギリスと同様に、アメリカから核の弾頭部分だけを買うと良いでしょう。 ロケットは、国産で十分で、弾頭部分だけを買えば、1年後には核保有国となります。 ドイツは、アメリカと核シェアリングをしてますが、核のボタンをアメリカと共有することになり、真の独立国家とは言えない。 イギリスやフランス並みに、戦略核、戦術核を合わせて300~500基程度保有すれば良いことですね。

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写真家って、いろいろな人がいて、いろいろな個性を発揮してたり、じんわりといいテーストを想わせる人がいたりと、様々で・・その人の狙い処が”絵”になってれば、それで十分なわけですね。 また、写真作品というのは、作者の”素性”なるものがそのまんま見えて来てしまうのが面白いというか、見られていると思えばちょっと怖いですね。 僕の素性は”行ったきり”なので、理性とか理念とか哲学みたいなものはなくて、何処かに迷い込んで、”帰り道を捜してる小学生”ようなもので、我がままにはしゃぎまわれるような、そんな場所を探し続てけているみたいです。

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Tetsuro Higashi Photograph Y

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僕にとっては、とっても感慨深い作品群なのですが・・・僕は初めて撮ったヌードじゃないかと記憶してます。 こうして見ていると、夢中で撮っていることが分ります。 こんな機会はめったになかったわけですから、それこそ貴重な”体験”だったわけですね。 これを撮った奴、なかなかいいアングル出しているじゃん・・みたいな感じがあって、今よりもむしろ、上手いじゃんか!みたいな・・

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——未完成性が開く身体表現の可能性——
アマチュア女性によるヌード写真集は、プロフェッショナルな制作体系とは異なる地点から、身体と表現の関係を問い直す重要な試みである。本論では、その価値を技術的完成度や市場性ではなく、身体の語り方と精神的距離という観点から考察する。
一般に、プロのヌード写真は、照明、ポージング、構図、レタッチといった要素が高度に統御され、身体は「見られるための像」として最適化される。そこでは、モデルは表現の主体であると同時に、視覚的完成度を担保する要素として位置づけられる。一方、アマチュア女性のヌード写真集においては、この統御が意図的、あるいは結果的に緩やかである。身体は完成されたイメージとしてではなく、揺らぎを含んだ存在として提示される。
この未完成性は、技術的不足を意味しない。むしろそれは、身体が記号化される以前の状態を保ち続けるための条件である。ポーズの不安定さ、視線の迷い、緊張と弛緩の同時存在——こうした要素は、身体が「表現しようとするもの」と「表現されてしまうもの」のあいだで揺れていることを示す。結果として写真集は、身体を消費するための視覚商品ではなく、身体が自らを引き受けようとする過程を記録する場となる。
精神性の観点から見れば、アマチュアであることは、自己と身体の距離が未だ固定されていないことを意味する。モデルは「見せる身体」としての経験を十分に蓄積していないがゆえに、自己演出に完全には没入できない。そのため、ヌードでありながら、どこか内向的で、自己確認的な気配を帯びる。この内省性こそが、写真集に独特の緊張と静けさを与えている。
また、写真家との関係性においても、アマチュア性は重要な意味を持つ。両者のあいだには、明確な役割分担よりも、探り合いに近い関係が生じやすい。撮る側も撮られる側も、正解を持たないまま進行する撮影は、結果としてコラボレーションの痕跡を強く像に刻み込む。そこでは、完成度よりも、関係性そのものが作品内容を規定する。
エロティシズムとの関係において、アマチュア女性のヌード写真集は、過剰な刺激性から距離を取る傾向にある。裸体は提示されているが、視線は快楽へと直線的に誘導されない。むしろ鑑賞者は、身体が他者の視線に置かれることへの戸惑いや緊張を共有することになる。この点において、親密さと不安を同時に写し取ったナン・ゴールディンの写真表現とも通底する側面がある。
結論として、アマチュア女性のヌード写真集は、完成された美や理想化された身体を提示するものではない。それは、身体が表現へと変わる途上の状態をあえて留め置くことで、ヌードという形式の原点——身体と自己意識の関係——を可視化する試みである。その価値は洗練ではなく、躊躇と沈黙の中に宿る。
このような写真集がアートとして成立するのは、身体が「見られる対象」である以前に、「存在してしまっている事実」として提示されているからである。そこには誘惑よりも、自己と向き合う時間があり、完成よりも、生成の痕跡が残されている。その静かな不確かさこそが、アマチュア・ヌード写真集の最も本質的な表現力なのである。


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Tetsuro Higashi Photograph nudy