「しょうへい作品」は、その美しさゆえ、多くの人に愛されている。 

 ・・・ただ、運命に愛されているかどうかは分からない。

Shohei Muto (むとう しょうへい)

日本の天才クリエイター。 知名度は低いが、私の知る範囲では最も優れた画家の一人であり、デザイナー、広範における作家とも言える。

先日、世田谷・経堂にあるGalerie#1317 にてスマホで撮った画像なので、”彼の感覚”の本質が伝わるかどうか、自信はもてない。 ぜひ、実物を観ていただきたい。

実際の彼は、何処にでもいそうな”飲兵衛なオヤジ”であり、そのオヤジの心にこのような”絵”が宿っていることを知り、表現は難しいが、この上なく、愛おしく、悲しくも幸せな想いである。

一見するだけで、目が点になるほど作品が美しい。 こういう風な鉛筆画を描く人は、過去から現在に至るまで、いくらでもいたし、誰でも簡単に描けるが、ある種、グロテスクで偏執的な絵柄をここまで美しく見せる作家を私は知らない。

展示会当日、彼が盛んに私に尋ねてきた・・「こんな風に描き続けてよいのだろうか?」と。 これ程までの作家に私からの助言などあろうはずがない。 また、「作品が小さすぎないか?」と。 サイズに関しても、本人の好みで決めること、私ごときが口を挟む余地はない。

私が、この人の存在を知ったのは、FBであり、観た瞬間にこの人のファンになった。 幸運にも、彼も私のファンであるらしく、相思相愛であるらしい。

天が彼に“才”を授けたなら、ちょっとでもよいから、生きる器用さも与えてほしかった・・私の正直な想いだ。

「矛盾する絵柄」

この椅子らしきものを観ていただきたい。 デザイン的には、普通な感覚からすれば、どう見ても絵柄が”矛盾”している。 その上、木工に布らしきものであるにも関わらず、メタリックな印象が強い。 どこまでも、矛盾している・・

正直なところ、お金の話をすることは好きじゃないけど、この人の作品は少なく見積もっても、数百万の価値はあると思います。 パリにもって行けば、絶対に売れると思う。

彼の創作過程は、最初に大まかなイメージがあるのではなく、徐々に描き広げていくらしい。 

限りなく研ぎ澄まされた感覚の成せる業である・・と解説することは易しい。 だが、それだけだろうか? それだけで、これだけの作品が仕上がるとは信じがたい。 私の感性の範疇を超えるところで何かが起こっているのだろう。

美術館が良い作品を永久保存することがその使命であるなら、「むとう しょうへい の作品」こそ、未来に残されるべきだろう。

DORADO GALLERY にて、撮影した画像です。

上から斜め位置に撮影したものもありますが、光の反射を抑えるためです。

道路脇からマンション階段入口まで
15メートルの細道に葡萄棚がある
かつては隣のビルに住む母子が
片や脚立を支え片や葡萄を狩った
ときおり大声で笑い合ったろうか
楽しく幸せな時間だったに違いない
葡萄は小分けし近隣に配ったという
その葡萄は昨年も今年も
ぼくが袋掛けしぼくが収穫している
葡萄はマンションオーナーに届け
それを隣のビルにオーナーが届ける
ぼくの拙い作品には
ときおり細やかな物語が入り込む
残った葡萄が朽ちて落ちる前に
美しく描けなかった葡萄に
軽く鉛筆を重ねようと思う

文 / Shohei Muto

ブコウスキーになりてえ
マドンナはスケベだが嘘がない
ジョニクロ イケルジャン
カレーにいつもの愛がない
民草殺して射精する糞の腹上死
百万本の薔薇が揃えばやり放題
免許復活して思いきり踏みてえ
マッチ箱の家で君を抱く阿呆の夢
カーテン越しに月が嗤う
UFOに拐われ未知の女を揺らしたい
現世にマリアを求める馬鹿男
バックライトのテレビは腰に来る
僕の工事で鼠が捕まりやがて死ぬ
You Are The Reason‥な訳ねえべ
遊び女は「糸」を唄ってよく泣いた
みずほの暗証番号は遠い逢瀬の夜
素朴な葡萄が一番美味しい
解り易い「たまには独りがいい」
なぁ窓外のお月さんよ… 

文 / Shohei Muto

– Web Gallery – Shohei Muto

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The Artistic Worldview of Nude Duo 

フォトエッセイ 「風のしらべに揺れる裾」

フォトエッセイ 風のしらべに揺れる裾

夜明けの光が町屋の格子を優しくなでるころ、
彼女は静かに袖を通す。
肌を撫でる絹の温もり、
胸元に広がる白檀の香。

背筋をすっと伸ばせば、
帯の結びが彼女をひとつ引き締める。
歩みを進めるたびに、
裾は風と戯れ、
草履の音は石畳にそっと響く。

川面に映る姿は、
四季折々の色を纏いながら、
時代の流れを超えた美を宿す。

紅をひと筆、
指先でそっとなぞれば、
そこに生まれるのは、
一輪の花よりも儚く、
けれども確かな、
粋という名の余韻。

彼女は微笑む。
まるで、
この世界を知り尽くしたように。

「私の手の中の新生児」

„Das Neugeborene in meinen Händen“

Es gibt Momente im Leben, in denen Worte versagen, in denen die Welt, wie wir sie kannten, mit einem Mal stillsteht. Das erste Mal, als ich das kleine Wesen sah, so fragil und dennoch voller unerschütterlicher Lebenskraft, spürte ich eine Resonanz, die weder Zeit noch Raum kannte. Ein Neugeborenes in den Händen zu halten, ist wie in den tiefsten Brunnen der Existenz zu blicken. Es ist das Unerklärliche, das uns an unsere eigene Herkunft erinnert und zugleich in die Zukunft weist.

Ich erinnere mich an die Augen dieses Kindes, winzige Fenster zu einer Welt, die sich noch vollkommen neu ordnet. Sie waren nicht wie die Augen eines Erwachsenen, die von Erfahrung und Mühen gezeichnet sind. Nein, sie waren rein, wie das erste Licht eines Morgens nach einem langen Winter. In ihnen spiegelte sich eine Unschuld, die nicht naiv, sondern ursprünglich war, ein Zustand des Seins, der jenseits von Sprache und Denken liegt. Es war, als ob das Universum selbst mir ein Geschenk machte, ein unbeantwortetes Rätsel, das ich nicht lösen sollte, sondern einfach bewundern durfte.

Die Hand des Kindes umklammerte meinen Finger – so klein, dass es schier unglaublich erschien. Und doch war die Kraft dieses Griffes gewaltig. Es war eine stille Botschaft, eine Art von Vertrauen, das keinen Zweifel kannte. Ich fragte mich, ob wir als Erwachsene jemals wieder diese Form von Vertrauen erreichen können. Wahrscheinlich nicht. Vielleicht ist es genau das, was wir als „Kindsein“ bezeichnen – die Fähigkeit, sich der Welt ohne Vorbehalte hinzugeben.

In dieser Begegnung wurde mir etwas klar: Das Leben ist keine Gerade, keine Linie von A nach B. Es ist ein Kreis, der sich immer wieder schließt und neu beginnt. Dieses Kind erinnerte mich daran, dass jeder Anfang ein kleines Wunder ist, dass es niemals „zuviel“ davon geben kann. Es erinnerte mich auch daran, dass wir Erwachsenen oft vergessen, dass wir selbst einmal genau so begonnen haben. Voller Staunen, voller Möglichkeiten, und ja, auch voller Mut.

Vielleicht ist es das, was wir von einem Neugeborenen lernen können: Die Welt mit neuen Augen zu sehen, den Moment zu umarmen, anstatt ihn zu kontrollieren. Jedes Mal, wenn ich an diesen Augenblick zurückdenke, verspüre ich eine seltsame Mischung aus Demut und Hoffnung. Demut, weil das Leben so viel größer ist, als wir je begreifen können. Hoffnung, weil dieses kleine Wesen, dieser neue Mensch, eine Zukunft trägt, die wir noch nicht kennen, aber deren Möglichkeiten endlos sind.

„Das Neugeborene in meinen Händen“ – es war nicht nur ein Moment, es war eine Lektion. Es war ein Blick auf das, was wirklich zählt. Und vielleicht, nur vielleicht, sind wir alle auf der Suche nach genau diesem Gefühl. Einem Gefühl, das uns erinnert, dass das Leben ein Geschenk ist – eines, das wir nicht verdienen müssen, sondern einfach nur annehmen dürfen.

「私の手の中の新生児」

人生には言葉を失う瞬間があります。私たちが知っていた世界が突如として止まり、小さな存在を目にしたその瞬間、はかなげでありながら揺るぎない生命力を宿していることに気づきます。新生児を手に抱くということは、存在の最深部をのぞき見るような体験です。それは言葉では言い表せない、私たち自身の起源を思い出させ、同時に未来を指し示すものです。

その子どもの目を覚えています。経験や苦難に刻まれた大人の目とは違い、純粋そのものでした。それは長い冬の後の朝の最初の光のように清らかで、言語や思考を超越した存在の状態がそこにありました。まるで宇宙そのものが私に贈り物をしているかのようで、解くべき謎ではなく、ただ称賛するべきものとして目の前に現れたのです。

その子どもの小さな手が私の指を握りました。信じられないほど小さいのに、その握力は驚くべきものでした。それは静かなメッセージであり、疑うことのない信頼の表現でした。大人になってから、果たしてこのような信頼を再び持てるのかと自問しました。おそらく無理でしょう。もしかしたら、これこそが「子どもらしさ」と呼ばれるものであり、先入観なく世界に身を委ねる能力なのかもしれません。

この出会いの中で、私はあることに気づきました。人生とは直線ではなく、AからBへの一本道でもありません。それは繰り返し閉じては新たに始まる円のようなものです。この子どもは、すべての始まりが小さな奇跡であること、そしてそれがいくらあっても過剰ではないことを思い出させてくれました。また、私たち大人が忘れがちなことも教えてくれました。私たち自身もかつては同じように始まりました。驚きに満ち、可能性に満ち、そして勇気に満ちていたのです。

もしかしたら、新生児から学べることはこうしたことなのでしょう。新しい目で世界を見つめ、制御するのではなく、ただその瞬間を受け入れることです。この瞬間を思い出すたびに、私は奇妙なほどの謙虚さと希望を感じます。謙虚さは、人生が私たちが理解し得る以上に大きいことを思い起こさせます。希望は、この小さな存在、この新しい命が、まだ知らない未来を内包し、可能性が無限であることを示してくれます。

「私の手の中の新生児」――それはただの瞬間ではなく、一つの教訓でした。それは、本当に重要なものへの視点を与えてくれるものでした。そしてもしかしたら、私たちすべてが求めているのはまさにこの感覚なのかもしれません。人生が贈り物であり、それを手に入れるのに値する必要はなく、ただ受け入れるだけで良いのだという感覚を。

フォトエッセイ «Девочка в тонкой ткани»

フォトエッセイ 「惜しげなく素肌を晒す少女へ」

フォトエッセイ  „Das Neugeborene in meinen Händen“

フォトエッセイ「不安や葛藤を受け入れるためのプロセス」

フォトエッセイ「大地と情熱の形象」

フォトエッセイ 「何よりも被写体への敬意と愛情」

フォトエッセイ 「女性性という言葉」

フォトエッセイ 「女体をキャンバスに変える心理」

フォトエッセイ 「記憶の断片が散りばめられている」

フォトエッセイ「裸体モノクローム」

女体が編む永遠の歌

女体が編む永遠の歌

女体が作る影には
名前があるだろうか
朝焼けの赤に包まれる肩甲骨は
「暁の溜まり場」と呼べるだろうか

背筋のカーブに沿って
影が溶け込むとき
それは「静けさの軌跡」となるのだろうか

胸元に宿る柔らかな影は
「秘密のため息」
それとも「春の吐息」

指が踊るたびに生まれる影は
「風を抱く指先」
足元を纏う長い影は
「地球に触れるしるし」

女体が作る影たち
それは形のない詩篇
沈黙の言葉
名付けられない何かの証明

影が語る物語を聞けば
光は嫉妬し
夜はそっと微笑む

影には名がある
でも、その名は心でしか響かない
ただ、感じるだけの名
女体が編む永遠の歌

フォトエッセイ 「裸体モノクローム」

フォトエッセイ 「女体が編む永遠の歌」

フォトエッセイ「恍惚への序曲」

フォトエッセイ ~ 憂いの中の満たされている私 ~

フォトエッセイ「ピエロになる・・」

フォトエッセイ 「終わらない問い」

フォトエッセイ「自分を探す旅が 今、始まろうとしている」

フォトエッセイ 「耽美の躍動」

フォトエッセイ「裸体を晒す侍の娘」

フォトエッセイ「憂いの織物」

フォトエッセイ 「それは陰毛の庭だった」

フォトエッセイ「静謐なる美の結晶」

フォトエッセイ 「自分を探す旅が 今、始まろうとしている」

フォトエッセイ「耽美の躍動」

フォトエッセイ「裸体を晒す侍の娘」

フォトエッセイ 「憂いの織物」

フォトエッセイ 「それは陰毛の庭だった」

フォトエッセイ 「静謐なる美の結晶」

境界を纏い 境界を脱ぐ

artist model : keiko

—着流しの和装と裸身が交差する場所についての断章—**

着物を着流すという行為は、もともと“形”を尊ぶ衣服の規律から、ひととき逸脱する身振りである。
襟は正されず、帯は結ばれず、布は重力に従ってただ静かに落ちる。
だが、その緩やかさの中にこそ、規律は逆説的に際立つ。
決まりがあるからこそ、決まりから外れることが意味を持つのだ。

そこに、裸身が差し挟まる。
だがそれは露出ではなく、衣と身体の境界がいったん宙吊りにされる瞬間である。
着物の内側にあるべき“肌”が、衣の外側に滑り出し、しかし依然として衣の影響圏から逃れない。
この奇妙な状態は、哲学的に言えば、
身体が「衣服という記号に属しながら、なおその外に立とうとする」緊張状態だ。

和装は、本来「隠す」文化の結晶である。
布の重なりは、肌を覆うという機能の他に、
社会的役割・身分・季節・時間といった“意味の層”を幾重にも重ねる。
その衣が着流されるとは、これらの意味が一度、
“ほつれ”のように緩み、
身体の輪郭が世界の象徴性から解放されるということだ。

しかし裸身は、完全には自由にならない。
むしろ着物という「ほつれた規範」の影を引きずったまま、
あいまいな境界の上に立つ。
身体はここで、隠蔽と開示の二項を同時に生きる存在となる。

着流しの着物は、
衣服でありながら衣服として機能しない。
裸身は、身体でありながら“完全な露わ”ではない。
どちらも「未完」の状態に置かれ、
その未完こそが美学的緊張を生む。

ハイデガーが言うところの〈開け〉は、
物の本質が自らの姿を世界の前に差し出すための空所だが、
この着物と身体のすれ違う空間こそ、まさにその〈開け〉である。
着物が外へ流れるほど、
身体は逆に内側へ沈み込むように感じられる。
肉体が露出しているにもかかわらず、
そこにはむしろ“深い隠蔽”が現れる。

衣は脱がれればただの布だが、
着流されるとき、
それは**身体と世界の間に生まれる“未決定の余白”**となる。
その余白に立つ裸身は、
もはや個体の肉体ではなく、
意味を失いかけた記号でもなく、
ただ“存在するという出来事の断面”に変わる。

裸身は衣を失いながら、
衣からは逃れない。
着物は形式を失いながら、
形式の影をまとい続ける。
その二つが交わる瞬間、
身体はただの裸体でも、
ただの衣でもない第三の状態へと移行する。

そこでは、美とは形の優劣ではなく、
境界が境界であることをやめかける、その瞬間の揺らぎに宿る。
着流す和装と裸身の関係は、
美を固定化しないための永遠の未整理であり、
世界と個人のあいだに引かれた細い線が
かすかに震える、その音なのだ。