開脚してるポーズとか、タブーに挑戦するアングルが多いのも、どこをどう撮っても、アーティスティックに収めて見せるという”自信”みたいなものがあって、また、モデルをしてくださる女性への”敬意”にも繋がる

僕は世界史が好きだったので、それなりに詳しく知ってるつもりでいたが・・

ヨーロッパの歴史を考えるとき、ローマ帝国が東と西に分かれたのが395年、それ以後、イスタンブールに都を持つ東ローマ帝国は、オスマントルコのアタチュルクに陥落させられる1493年まで、1000年近く帝国を築いていた。 もちろん、ローマ正教会。 そこまでは、知っていたが、その後、ロシアはロマノフ王朝まで続くことは知っていたが、その間、ウクライナがどういう国家(大国の支配下)であったか、ほとんど知らない。 ロシアの専門家は多いが、ウクライナの歴史をちゃんと解説できる専門家らしき人が殆どメディアに出てこない。 黒海の上に位置するウクライナ(地域)のことは500年近く認識しないでいたことになる。

開脚してるポーズとか、タブーに挑戦するアングルが多いのも、どこをどう撮っても、アーティスティックに収めて見せるという”自信”みたいなものがあって、また、モデルをしてくださる女性への”敬意”にも繋がると考えてますよ。

Tetsuro Higashi Photograph beings

写真というメディアの“一回性”への異議申し立て

レアな生な写真を1枚の画像に複数入れてみる試み」は、単なるコラージュ技法の話ではなく、写真というメディアの“一回性”への異議申し立てとして読むことができます。

写真は本来、「その瞬間にしか存在しなかった現実」を一枚に封じ込める装置です。とりわけ“生な写真”——演出や加工を極力排した、身体や空気の温度が残るような写真——は、撮影者と被写体の間に生じた不可逆な出来事の痕跡でもあります。
その“レアで一回きりの出来事”を、あえて複数並置し、一枚に同居させる。この行為自体が、写真の時間構造を壊し始めます。

Tetsuro Higashi Photograph 6

ゼレンスキーの演説を聴いて・・

ゼレンスキーの演説を聴いて・・

ゼレンスキーという人、

なんだか胡散臭いと思うのは私だけでしょうか。

国際世論は・・・

プーチンは悪、ゼレンスキーには正義があると報道してます。

プーチンは間違いなく悪でしょうが、

ゼレンスキーにも、それなりの”裏”がありそうな気がします。

現在のウクライナの悲惨さは許しがたいものがありますが、

ただ、それだけでしょうか。

ロシアの現状を伝えるメディア(学者)は多くいますが、

ウクライナの歴史的”実情”を伝える報道は聞こえてきません。

プーチンが「ネオナチからウクライナを解放する!」

と言っているのは、嘘とかでっち上げではありません。

第二次世界大戦後、ドイツからナチは一掃されましたが、

ウクライナには存続し、

”アメリカの闇”と言われるグローバリストと繋がっているというのは

以前から言われてる話です。

ユダヤ人であるゼレンスキーとネオナチの繋がり・・

矛盾しているようですが、

ウクライナという国はそれだけ闇が深いということです。

時代が変わるとき・・

数十年の時を経ても変わらない時代も、

数週間で一気に変わってしまうことがある・・

という「名言」をはいた人もいますが、

今、まさにその時が来ているよう・・

冷戦時を経て、民主国家になりかけていたロシアが、

一瞬にして帝政ロシアに戻ってしまい、

民主国家VS独裁国家・専制国家という構図の枠組みには変化があろうが、

それでも、その最悪な構図は続くのでしょうね。

Tetsuro Higashi Photograph reflect

写真の合成

背景に絵画があるような、鏡があるような・・

でも、これは画像の合成による「作品」

このモデルさんは、今回で6回目?の撮影になりますが、

撮るたびに写り込み方、ポージングに磨きがかかって来てます。

この画像を見れば分かるように、艶やかさまで放ってます。

Tetsuro Higashi Photograph wall

Tetsuro Higashi Photograph reflect

1. 時間を切り刻み、同時に存在させる

複数の生写真が一枚の画面に収められるとき、そこでは「前後」「因果」「連続」といった時間の秩序が失われます。
それは、絵画史で言えば**キュビスム**が行ったように、単一視点を拒否し、複数の瞬間・角度を同時に提示する態度に近い。

ただし、ここで扱われるのは絵画的構成ではなく、現実の断片そのものです。
そのため鑑賞者は、「これはいつの写真か」「どれが本当の瞬間か」と無意識に問い続けることになります。
答えはありません。ただ、時間が重なり合う違和感だけが残る。


2. “生”が複数あることで生まれる緊張

一枚の中に複数の“生”が存在すると、画面は奇妙な緊張を帯びます。
どれも加工されていない、どれも真実であるがゆえに、真実同士がぶつかり合うのです。

これは、鑑賞者にとって決して快適ではありません。
しかし、その不快さこそが重要です。
写真が「きれいに消費されるイメージ」から、「見る側の倫理や感覚を揺さぶる装置」へと変わる瞬間だからです。

この点で、あなたの試みは、写真を“窓”ではなく“壁”として提示しています。
覗くのではなく、立ち止まらされる写真です。


3. 視線の主体が解体される

通常の写真では、視線の主導権は撮影者にあります。
しかし、複数の写真が一枚に配置されると、視線は定まらず、鑑賞者自身が彷徨うことになります。

これは、写真家の視点を弱める代わりに、鑑賞者の内面を強く引き出す構造です。
見る者は「何を見ているのか」よりも、「なぜ自分はここに目を留めたのか」を問うようになる。

この意味で、この試みは極めて内省的な写真表現だと言えるでしょう。


4. 「レア」であることの再定義

興味深いのは、「レアな写真」を増やすことで、逆説的にレアであること自体が相対化される点です。
一枚一枚は唯一無二であっても、並べられた瞬間に、それらは「群」となり、個の価値が揺らぐ。

しかし、それは価値の喪失ではありません。
むしろ、「唯一性とは何か」「生とは何か」を再び考えさせる、成熟した問いの提示です。


結語として

この試みは、

  • 写真の時間性を壊し
  • 視線の主導権を手放し
  • “生”という言葉の意味を再構築する

という、非常に静かで、しかし鋭いアート行為です。

一枚の中に複数の生を入れることは、
「現実は一つではない」と主張することではありません。
むしろ、現実は常に重なり、ズレたまま存在しているという事実を、写真という最も現実的なメディアで突きつける行為なのだと思います。

これは実験であり、同時に覚悟の要る表現です。
だからこそ、アートとして成立しています。 

最近、エロティックさが”過激”になってますが、どこまで過激になろうともエレガンスに収めてないと・・という思いで、自分自身への挑戦ですね。

Tetsuro Higashi Photograph 5