THE ALFEE – The Boxer

ここまで見事なカバーは少ないね

原曲はサイモンとガーファンクル

アメリカの“深層”を突いたものですが

アルフィーにはそんな想いがあるはずもなく

ただただ見事にハモリこなしてしまう・・

これまで、政府のやり方に関して

”怒り”を覚えたことない僕も

コメの値段高騰には憤りを覚える

7月から9月にかけて

これまでの政治形態が激変するかもしれないね

庶民の怒りを甘く見ちゃいけないよ!

音楽と詩のじかん K2 スタジオ 仙川

音楽と詩のじかん 

日時:5月18日(日曜日) 14:30~15:30

会場:K2 スタジオ (K2ビル B1F)仙川駅徒歩2分

出演:伊与田菜生(クリエイター)

アート写真に見る「ヌード」の再解釈

芸術写真に見る「ヌード」の再解釈

芸術写真におけるヌード表現、あるいは眠る姿というテーマは、しばしば「見る/見られる」というジェンダー構造の中で語られてきました。けれども近年の写真家たちの手によって、その図式は静かに、しかし確実に更新されつつあります。

フォトエッセイ「繊細な境界線を、慎重に、あるときは大胆に、探る行為」

被写体との信頼関係と尊重

ヌード撮影では、モデルとの信頼関係がなければ成立しません。写真家は撮る前から、撮影のコンセプト、目的、どのような表現を目指すのかを丁寧に説明し、モデルの了解と安心を得る必要があります。

撮影中に考えることとしては:

  • モデルが安心していられるか。
  • 恥ずかしさを和らげ、自然な感情が引き出されているか。
  • 撮影者のまなざしが「消費する眼」になっていないか。
  • 「ポーズ」ではなく「存在」をどう引き出すか。

写真家によっては、モデルの呼吸や心拍に意識を合わせ、同じリズムで空間に「居る」ことを大事にする人もいます。

社会や性の文脈を意識すること

女性のヌードを撮るという行為は、歴史的にも社会的にも、さまざまな文脈を背負っています。

写真家によっては、次のようなことを意識しています:

  • 「見る者の視線(male gaze)」から自由なヌードとは何か。
  • 被写体を「主体」として写すとはどういうことか。
  • ポルノグラフィーとの違いはどこにあるか。
  • ヌードを通して何を語るのか。個人の尊厳、老い、性、母性、自由、傷跡…など。

つまり、ただ「きれいだから撮る」というよりも、「何を見せたいのか」「何を伝えたいのか」という思想が不可欠になります。

自己との対話

ときにヌード撮影は、写真家自身の内面と向き合う行為でもあります。
なぜ自分はヌードに惹かれるのか。
自分は被写体にどういうまなざしを向けているのか。
無意識の中にある「欲望」や「怖れ」を自覚することもあります。

被写体の身体を通じて、自分の内面の闇や光を見つめる――これはとても個人的な営みでありながら、深く普遍的でもあります。

「写真家が女性ヌードを撮るとき、何を考えているのか?」
それは、他者との境界を丁寧に扱いながら、美と感情、身体と言葉にならないものの間にある「なにか」を探っている、そんな行為かもしれません。
あるいは、「欲望」と「倫理」、「美」と「生々しさ」、「表現」と「消費」――その繊細な境界線を、慎重に、あるときは大胆に、探る行為とも言える

フォトエッセイ「もとに」

人は、どこかに戻ろうとするとき、「もとに」という言葉をそっと胸の内につぶやく。

たとえば旅先で、ふと家の匂いを思い出すとき。学生時代の友人に再会して、昔の口ぐせが自然と出てしまうとき。自分を取り戻したいと思った瞬間にも、私たちは「もとに」帰りたくなる。

それは必ずしも、具体的な場所ではない。時間だったり、人だったり、あるいは声や手触り、ひとつの感情であることもある。

かつて私は、季節の変わり目にだけ会う祖母の庭の金木犀の香りを、ある秋の日に都会の路地でふと感じ、涙がにじんだことがある。香りが導いたのは「もとに」あった、幼い頃の記憶、祖母の声、手を引かれて歩いた道、何も知らずに笑っていた自分だった。

「もとに戻る」という行為は、決して後ろ向きではない。むしろ、その人の根っこを確認し、自分の現在地を見直す行為だ。大切なものが何かを見失いそうなとき、過去の自分に手を伸ばすことがある。それは、未来に進むために必要な小さな儀式なのかもしれない。

人は一生のうちに、何度でも「もとに」帰る。自分を確かめ、あたたかさを思い出し、再び歩き出すために。

「あなたはどこに戻る?」と聞かれたら

ちょっと恥ずかしいが

「ここに」戻るというのが、正直なところ。

フォトエッセイ「私は今日もまたシャッターを切る」

以来私は、撮影の際、できるだけモデルに指示を与えず、彼女たちが「場と溶け合う瞬間」を待つようになった。構図には常に「余白」を残し、見る者がそこに自分の記憶を重ねることができるよう心がけている。

私にとって制作とは、過去の体験を静かにすくいあげ、未来に送り出す作業である。あの静けさを、別の誰かの心に届けるために、私は今日もまたシャッターを切る。

フォトエッセイ「創造とは・・」

静かな朝、目覚めの直後、まだ夢の残り香が脳裏を漂っているような時間帯がある。意識は覚めつつも、現実には完全に戻っていない。その境界線の上で、私はふとした言葉を思い出したり、突拍子もない映像が頭の中に浮かんだりする。そうした瞬間に生まれてくるもの、それが「潜在的意識」の中に眠っていた何かだと私は思っている。

創造とは、すでに知っているものを再構成するだけではない。むしろ、自分でも気づかぬうちに内側に沈められた体験が、あるとき自然に形を取って現れてくる。その源は、深い井戸のようなものだと思う。その井戸の水を汲み上げるためには、静けさと余白、そして少しの勇気が必要だ。

フォトエッセイ「関係性の繊細な網」

「関係性の繊細な網」

ひとは、縛られたものにこそ自由を投影する。
肉体が縄に絡めとられたその姿を前にして、私はむしろ“束縛のない関係”について考えていた。

絵画や写真の世界では、縄とヌードの組み合わせがときに「官能」の象徴として語られる。だが目の前のこの光景は、それだけではなかった。裸のままに縛られながら、彼女の眼差しはまるで、私たちが互いにどこまで信頼し合えるかという問いを投げかけているようだった。

肉体に触れずに、魂に触れるということ。
暴力と尊重の境界をどこまでも厳密に見つめながら、愛の輪郭を、そっと指でなぞるように探すこと。

それは、「相手を所有しない」という強い意志から始まる。
縄の交差点に、編まれていたのは身体ではなく、関係性の繊細な網だった。

縄をかけるという行為は、愛の暴力的なメタファーにもなるが、それをどこまでも丁寧に、相手を壊さないように結び、結ばれ、解かれていくその過程に、私はむしろ“純愛の比喩”を見ていた。

裸であり、縛られ、なお、尊厳をもってこちらを見るその人を前に、
私は問われていた。
「あなたは、わたしの裸の存在を、どこまで受けとめる用意があるの?」と。