フォトエッセイ「もとに」

人は、どこかに戻ろうとするとき、「もとに」という言葉をそっと胸の内につぶやく。

たとえば旅先で、ふと家の匂いを思い出すとき。学生時代の友人に再会して、昔の口ぐせが自然と出てしまうとき。自分を取り戻したいと思った瞬間にも、私たちは「もとに」帰りたくなる。

それは必ずしも、具体的な場所ではない。時間だったり、人だったり、あるいは声や手触り、ひとつの感情であることもある。

かつて私は、季節の変わり目にだけ会う祖母の庭の金木犀の香りを、ある秋の日に都会の路地でふと感じ、涙がにじんだことがある。香りが導いたのは「もとに」あった、幼い頃の記憶、祖母の声、手を引かれて歩いた道、何も知らずに笑っていた自分だった。

「もとに戻る」という行為は、決して後ろ向きではない。むしろ、その人の根っこを確認し、自分の現在地を見直す行為だ。大切なものが何かを見失いそうなとき、過去の自分に手を伸ばすことがある。それは、未来に進むために必要な小さな儀式なのかもしれない。

人は一生のうちに、何度でも「もとに」帰る。自分を確かめ、あたたかさを思い出し、再び歩き出すために。

「あなたはどこに戻る?」と聞かれたら

ちょっと恥ずかしいが

「ここに」戻るというのが、正直なところ。

フォトエッセイ「私は今日もまたシャッターを切る」

以来私は、撮影の際、できるだけモデルに指示を与えず、彼女たちが「場と溶け合う瞬間」を待つようになった。構図には常に「余白」を残し、見る者がそこに自分の記憶を重ねることができるよう心がけている。

私にとって制作とは、過去の体験を静かにすくいあげ、未来に送り出す作業である。あの静けさを、別の誰かの心に届けるために、私は今日もまたシャッターを切る。

フォトエッセイ「創造とは・・」

静かな朝、目覚めの直後、まだ夢の残り香が脳裏を漂っているような時間帯がある。意識は覚めつつも、現実には完全に戻っていない。その境界線の上で、私はふとした言葉を思い出したり、突拍子もない映像が頭の中に浮かんだりする。そうした瞬間に生まれてくるもの、それが「潜在的意識」の中に眠っていた何かだと私は思っている。

創造とは、すでに知っているものを再構成するだけではない。むしろ、自分でも気づかぬうちに内側に沈められた体験が、あるとき自然に形を取って現れてくる。その源は、深い井戸のようなものだと思う。その井戸の水を汲み上げるためには、静けさと余白、そして少しの勇気が必要だ。

フォトエッセイ「関係性の繊細な網」

「関係性の繊細な網」

ひとは、縛られたものにこそ自由を投影する。
肉体が縄に絡めとられたその姿を前にして、私はむしろ“束縛のない関係”について考えていた。

絵画や写真の世界では、縄とヌードの組み合わせがときに「官能」の象徴として語られる。だが目の前のこの光景は、それだけではなかった。裸のままに縛られながら、彼女の眼差しはまるで、私たちが互いにどこまで信頼し合えるかという問いを投げかけているようだった。

肉体に触れずに、魂に触れるということ。
暴力と尊重の境界をどこまでも厳密に見つめながら、愛の輪郭を、そっと指でなぞるように探すこと。

それは、「相手を所有しない」という強い意志から始まる。
縄の交差点に、編まれていたのは身体ではなく、関係性の繊細な網だった。

縄をかけるという行為は、愛の暴力的なメタファーにもなるが、それをどこまでも丁寧に、相手を壊さないように結び、結ばれ、解かれていくその過程に、私はむしろ“純愛の比喩”を見ていた。

裸であり、縛られ、なお、尊厳をもってこちらを見るその人を前に、
私は問われていた。
「あなたは、わたしの裸の存在を、どこまで受けとめる用意があるの?」と。

フォトエッセイ「灯篭の明かりが映し出すヌード」

灯篭の明かりが映し出すヌード

夜の帳が静かに降りる頃、庭の片隅にひっそりと佇む灯篭が、柔らかな光を放ち始める。その明かりは、冷たさと温かさを併せ持ち、まるで夜の深さに触れた肌のようだ。

石の重みに沈む時間の中で、灯篭の明かりがゆっくりと輪郭を浮かび上がらせる。布が落ち、名もない静けさの中に、ひとり、ただひとりの裸体が現れる。それは露わというにはあまりに慎ましく、隠されたものというにはあまりに正直だ。

灯篭の光に導かれ、背の線が、肩の影が、腰のゆるやかな曲線が、ひとときの物語を紡ぎ始める。葉擦れの音がそっと拍子をとり、虫の声が遠くで調べを添える。誰のためでもないそのヌードは、見る者の内にだけ、そっと触れてくる。

照らすでもなく、隠すでもなく、灯篭の明かりはただそこにあり、夜に沈みゆくものたちを静かに、たしかに、見つめている。

この情景は、単なる視覚的な美しさを超えて、私たちの内面に深く訴えかけてくる。灯篭の明かりが映し出すヌードは、私たち自身の心の奥底にある、純粋でありのままの姿を象徴しているのかもしれない。

フォトエッセイ[もう既に、十分すぎるほどの時を生きてきた」

:

私はいつまで生かされるのだろう

そして、いつまで生きられるのだろう

:

もう既に、十分すぎるほどの時を生きてきた

静かにこの世をされるのなら

躊躇うこともない

後に残すものもない

やり残したものもない

:

余生を過ごすことって

ただ、宛てもなく彷徨うことなのだろうか。

「愛と焦燥の間に」


「愛と焦燥の間に」

たぶんそれは、ひとつの部屋。
夜を迎える前の、光の最後の粒子が漂っている。
窓を閉め忘れた風が、カーテンを揺らす。
彼の気配がそこにあった、と感じた瞬間のような、過去と現在が重なる場所。

愛は来て、座る。
何も言わない。
焦燥は立っている。
歩き回り、煙草に火をつけては、すぐに消す。
言葉が壁に跳ね返る。だれもそれを聞こうとはしない。

そして私たちは、そのあいだに生きている。
待つ者として。迷う者として。
愛を信じたいとき、焦燥は耳元で囁く——「まだ足りない」と。
焦燥から逃れたいとき、愛は背を向けて黙っている。

それでも私は、コーヒーの苦みを舌に残しながら、朝を待つ。
あの人の名を、心の中だけで何度も唱える。
それは祈りではなく、呪文でもなく、ただ——残響。

愛と焦燥の間には、時がある。
それは、時計の針では測れない時間。
手に触れられない熱。
見えないまなざし。
名もなき不在の重み。

だから私は、あの部屋に戻る。
何もないテーブルの前に座り、
もう来ることのない扉のほうを見つめている。
言葉もなく、夢もなく。
ただその、”はざま” に。

フォトエッセイ「Entre l’amour et l’angoisse, qu’y a-t-il ?」

:

Entre l’amour et l’angoisse, qu’y a-t-il ?
(愛と焦燥の間に、何があろうか?)

たぶんそれは、ひとつの部屋。
夜を迎える前の、光の最後の粒子が漂っている。
窓を閉め忘れた風が、カーテンを揺らす。
彼女の気配がそこにあった、と感じた瞬間のような、過去と現在が重なる場所。

愛は来て、座る。
何も言わない。
焦燥は立っている。
歩き回り、煙草に火をつけては、すぐに消す。
言葉が壁に跳ね返る。だれもそれを聞こうとはしない。

そして私たちは、そのあいだに生きている。
待つ者として。迷う者として。
愛を信じたいとき、焦燥は耳元で囁く——「まだ足りない」と。
焦燥から逃れたいとき、愛は背を向けて黙っている。

それでも私は、コーヒーの苦みを舌に残しながら、朝を待つ。
あの人の名を、心の中だけで何度も唱える。
それは祈りではなく、呪文でもなく、ただ——残響。

愛と焦燥の間には、時がある。
それは、時計の針では測れない時間。
手に触れられない熱。
見えないまなざし。
名もなき不在の重み。

だから私は、あの部屋に戻る。
何もないテーブルの前に座り、
もう来ることのない扉のほうを見つめている。
言葉もなく、夢もなく。
ただその、”はざま” に。

【売春島に潜入】人身売買に借金地獄…少女たちを支配した裏社会の実態

【売春島に潜入】人身売買に借金地獄…少女たちを支配した裏社会の実態と、島が辿った衝撃の末路

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「この島」のことは・・・

1975年くらいから、バブル期に30年近く続いていたそうです

私は1950年生まれですから

私がしっかり現存していた時期ですね

その意味では、耳につまされる話なのです

:

良くも悪くも・・

私の人生は世間と断絶していたところがあって

接待するとか、されるとか

呑んだ勢いで羽目外すとか

・・そんな経験が全くなくて

”未知の領域”なんですね、私にとっては。