Photo-model : Mai 7

生き方を、私の側に引き寄せることはできないのだろうか。

生きることに、不器用さを感じる瞬間がある。
朝、起きること。顔を洗うこと。服を選ぶこと。誰かに挨拶すること。
何でもないはずのことが、ときに重たく感じられて、呼吸が浅くなる。
世の中には、こういうことを何でもない顔でこなしていく人がいる。
軽やかで、柔らかで、流れるように生きているように見える人たち。

それに比べて、私はいつもぎこちない。
会話のタイミングがつかめなかったり、言いたいことが喉でつかえたままだったり。
周囲に合わせようとして疲れてしまう。
帰り道に、一人になってようやく息をつける。
そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていた。

でも、ふと思うのだ。
生きることに不器用なのは、私だけではないはずだ、と。
うまく話せない人。目を見て笑うのが苦手な人。
人の多い場所で、ひとりでいることに安堵する人。
そういう誰かが、たしかにこの世界にいるはずだ。
姿は見えなくても、きっとどこかで同じように息を整えている。

そうであるならば、
生き方というものを、自分の側に引き寄せることはできないだろうか。

たとえば、人混みが苦手なら、静かな場所で過ごす時間を大切にしてもいいのではないか。
たとえば、人と話すのが苦手なら、手紙や文章で心を伝えてもいいのではないか。
たとえば、毎日がしんどいなら、週に一度だけ「今日はよくやった」と自分に言ってあげてもいいのではないか。

誰かの“正解”を借りて生きるのではなく、
自分の“不器用”を出発点にして、生き方を組み立てていく。
それは、遅くて、まわり道で、つまずきの多い道かもしれない。
けれど、確かに「私の歩幅」に合った道だ。

少しずつでいい。
「生きていく」ということを、「生きやすくする」という方向に。
他人の枠の中で苦しむのではなく、自分に合う空間を育てること。

そうして、少しずつ、生き方が私の方へ近づいてくる。
あるいは、私が私のままで生きていいと思える場所が、どこかで少しずつ形になってゆく。

それを信じて、今日もまた、自分のペースで歩いていこうと思う。
不器用なりに、静かに、確かに。

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Photo-model : Mai 4

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私は笑顔でいられる時間が少ないような気がする。

誰かと笑い合っているつもりでも、その笑顔がほんとうのものだったかどうか、帰り道でふと分からなくなる。
なんでもない日常のなかで、ふいに鏡の前を通りすがって、自分の顔が無表情であることに気づくと、ちょっとだけ胸がつまる。

いつからだろう、心から笑うことが難しくなったのは。
子どもの頃は、そんなこと考えもしなかった。
日だまりの中で、何かを拾い上げて、どうでもいいことで笑っていたはずなのに。

誰かに無理に合わせているわけじゃない。
自分を偽っているわけでもない。
でも、気づけば“いい顔”をしようとしている。
誰かの期待にそっと寄り添いながら、角を立てないように、波を立てないように。
そうしているうちに、「自分の素の顔」ってなんだったっけ、と、思ってしまう。

笑顔が減ると、時間の流れも味気なくなる。
毎日がただ通り過ぎていく感じがして、足元が頼りなくなる。
だから私は、笑える瞬間をちゃんと覚えておこうとする。
たとえば、コンビニの店員さんがくれたやわらかな「ありがとうございます」の声。
たとえば、通りすがりの小さな犬がこちらを見上げて尻尾を振ったこと。
そんな何でもない出来事のなかに、小さな笑顔の種がある。

私は笑顔でいられる時間が少ないような気がする。
でも、ゼロではないことが救いだ。
完全に失われたわけじゃない。
小さな光が残っている。
だから、今日もほんの少しでいい、心がふっとゆるむ瞬間を探しながら歩く。
笑おうと思わなくても、気づいたら笑っていた。
そんな自然な時間が、少しでも戻ってくるように。

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Photo-model : Mai 1

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アジサイの枯れ花と、歩くということ

森を歩いていた。季節は、もう秋の深まりを迎えている。葉は黄に、褐に、そして静かに土へと還ってゆく。足元にふと、色の抜けたアジサイの花が落ちているのを見つけた。

それは、もはや花ではなかった。咲いていたときの華やかさやみずみずしさはとうに失われ、色は褪せ、形も少し崩れていた。けれど、私はその花を「きれいだ」と思った。

どこか痛ましく、そしてどこか、やさしい。

しゃがんで拾おうかどうか迷ったが、指先を伸ばすことはしなかった。ただ、立ち止まって見つめて、それからまた歩き出した。

目的はなかった。ただ歩きたかったのだ。行きたい場所があるわけでもないし、誰かに会う予定があるわけでもない。ただ、森に入りたかった。何かを探していたのかもしれないし、何も見つけたくなかったのかもしれない。

アジサイは、雨の季節の象徴のような花だ。だが、この枯れた姿には、晴れた午後の静けさがあった。風に吹かれて、カサカサと音を立てるような軽さ。咲いていたときよりも、この花はなにかを語っているような気がした。

私は、自分の中にもそんな「枯れたアジサイ」のような感情があることを思った。ずっと前に終わった出来事、消えてしまった言葉、遠くなった誰か。もう何の力もないようでいて、けれど、いまでもときどき足を止めさせるもの。

それは悲しみではなく、ある種の赦しのようでもあった。

歩くこと。目的もなく。ただ、風の音と自分の足音を聴きながら進むこと。そうして森を出る頃には、胸の奥のざわめきも少しやわらいでいる。

枯れた花は、踏まずにそっとよけた。触れなかったけれど、たしかに心のなかに持ち帰った。

誰かと話すでもなく、何かを書くでもなく、ただ黙って歩く。そんな時間が、私にはときどき必要になる。

理由は、たぶん、まだ知らないままでいいのだと思う。

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ON BED

ON BED

The bed is a raft
sailing the dusk of our forgetting—
sheets tangled like seaweed,
pillow a drowned moon.

Your hair left
a constellation on the linen.
I mapped it once
with my fingertips,
naming each knot:
longing, remorse,
the joke we never laughed at
but carried in silence
like a second spine.

Outside, the wind insists
on turning pages of a book
I meant to finish—
the one where two people
kiss in the middle
of a war,
then forget why
they were ever afraid.

This mattress
knows more of us
than any poem
I could write.
It does not judge.
It only sags
in the exact place
where I still
dream
of your hands.

photography-one

作品はいつも不確実で未完成なもの、観る者が自身の感性で形創るもの、だから、例え一枚の画像であっても、”無数の作品”になっている。

見る人が自分の体験を通して作品を完成させます。