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この人の撮影はけっこう難しかった
本人が写真慣れしたないこと
撮られるのが苦手なことがあるのでしょう
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被写体の”リズム”が掴めないと
シャッターを切るタイミングが合わない
ちぐはぐしてしまうんです
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こちら側も、ポージングなどの注文は一切してない
(言っても、出来そうにないから)
終始、自然体を徹してもらった。

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「ここの上下の画像」・・今回の飛び切りの2枚!
ただ,立ってるだけなんだけどね。



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生きることに、不器用さを感じる瞬間がある。
朝、起きること。顔を洗うこと。服を選ぶこと。誰かに挨拶すること。
何でもないはずのことが、ときに重たく感じられて、呼吸が浅くなる。
世の中には、こういうことを何でもない顔でこなしていく人がいる。
軽やかで、柔らかで、流れるように生きているように見える人たち。
それに比べて、私はいつもぎこちない。
会話のタイミングがつかめなかったり、言いたいことが喉でつかえたままだったり。
周囲に合わせようとして疲れてしまう。
帰り道に、一人になってようやく息をつける。
そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていた。
でも、ふと思うのだ。
生きることに不器用なのは、私だけではないはずだ、と。
うまく話せない人。目を見て笑うのが苦手な人。
人の多い場所で、ひとりでいることに安堵する人。
そういう誰かが、たしかにこの世界にいるはずだ。
姿は見えなくても、きっとどこかで同じように息を整えている。
そうであるならば、
生き方というものを、自分の側に引き寄せることはできないだろうか。
たとえば、人混みが苦手なら、静かな場所で過ごす時間を大切にしてもいいのではないか。
たとえば、人と話すのが苦手なら、手紙や文章で心を伝えてもいいのではないか。
たとえば、毎日がしんどいなら、週に一度だけ「今日はよくやった」と自分に言ってあげてもいいのではないか。
誰かの“正解”を借りて生きるのではなく、
自分の“不器用”を出発点にして、生き方を組み立てていく。
それは、遅くて、まわり道で、つまずきの多い道かもしれない。
けれど、確かに「私の歩幅」に合った道だ。
少しずつでいい。
「生きていく」ということを、「生きやすくする」という方向に。
他人の枠の中で苦しむのではなく、自分に合う空間を育てること。
そうして、少しずつ、生き方が私の方へ近づいてくる。
あるいは、私が私のままで生きていいと思える場所が、どこかで少しずつ形になってゆく。
それを信じて、今日もまた、自分のペースで歩いていこうと思う。
不器用なりに、静かに、確かに。

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