モデルは踊絵師:神田さおり
この作品は、私のスタジオで縦6m、横2.4mのキャンバスに彼女が絵を描き
その絵を背景にして撮影した
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スタジオでの撮影は、モデルと私の二人だけの空間となる
撮る側、撮られる側という違いがあるにせよ
両者の呼吸が合わないことには、良い意味での心地よさは生まれてこない
シャッター音が増すごとに、良い緊張感がどんどん増していく
素晴らしい撮影空間を共有できたことへ感謝している。
この画像を購入したいと言ってくる人が既に複数いる
私の撮影の中では、”本線”から外れていることもあり
嬉しいが、ちょっと混迷気味である。
大方の男子の期待に水を差すようだが、
ヌード女性を前にして、”特別な気持ち”になることはない
フォトグラファーとはそういうものなのです
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カメラを持てば別人になる
被写体がどう映り込んでいるのか?
そのことばかりに集中している
被写体となるヌードの美しさ、存在感など
それらをどう写し込めるか! そればかりを考えている。
Artist : Saori Kanda といった方がよいのか
この画像は、臨月に入ったころ、彼女の自宅で撮影
背景などのセッティングはすべて彼女による
僕はシャッターを切るだけ
私のスタジオで撮影したこともあり、
踊絵師:Saori Kanda の会場へ出向いて撮影したこともある
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この人には、静かにゆったりと流れる時間がある
地球時間とは異なる時間であり、
彼女を包む時空はとても心地よいものである。
1901~1904年 青の時代 (ピカソ) (Picasso’s Blue Period)
「ピカソは友人の死によるショックから、このような苦悩、悲哀などが作品にみられる・・」
・・・というのが、当時も今も通説となっている。
この”通説”なるものがまかり通るのは、
それを書く者も、読む者も納得できるからである
そして、あたかも真実のように語り継がれる
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私が思うには・・
思春期の終わりを迎えるときの一過性の「切なさ・やるせなさ」ではなかったか?と、思える
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ベートーベンの作品を語るとき、
彼が向き合ったであろう「苦悩」をセットにして語られている
様々な苦悩を乗り越えたところに作品が生まれた・・と
この通説も同様であると思われる
彼が苦悩したのは
世間と隔絶した”世界”に生きていただろうし
作品の崇高性を考えれば、現実の世界で、彼のよき理解者などいるはずもない
そこに孤独・苦悩はあったと思われる
苦悩を乗り越えた先に作品が生まれる・・というのはウソで、
創作活動こそが、唯一彼が(世間という通俗性から)解放されるときであり
喜びの時間であったに違いない
限られた時間を生きることに真に向き合えば、誰氏にも「苦悩」はある
”崇高な苦悩” なるものがあるのかどうか・・僕には分からない
ただ一つ言えることは・・
苦悩が作品を創らせる・・と言うことはなく
作品の中に苦悩が見られるというなら、それはしごく当然なことである。
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この作品について・・・
モデルの心情を如実に写し撮ってると確信している
プライベートなことでもあるので、詳しくは書けない。
個性的なモデルは被写体として、とても貴重である
写真のための「作品モデル」というジャンル(職業)は確立していない
誰でも被写体としてモデルになれるが、
プロとして活躍できるのはほんの一握りである、というより、ほとんどいない
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このモデルを「作品モデル」として、高く評価している。
当然のように、写真にもいろいろある
空間を平面に還元していることであるから、
三次元を二次元に還元していることになる
ところが、この写真という二次元の世界にもう一つの要素である
時間という概念を取り込り込むことも多い
時間以外にも時代背景であったり、心像が色濃く出ていたり
ときとして、ドキュメンタリーに近く、モデルの生き様に寄り添っていたり
絵画のデッサンとは違い、写真でしか表現できない人体の造形美もある
観る者の知的好奇心を刺激する、蘇らせる作品であれば全てそれでよい。
「形あるものはいつか壊れる」と言うが
この画像を見ている限り、
たぶん、この肉体は永遠不滅なるだろう・・ことを思わせる
原則として,ランジェリーで写真を撮らない
通俗的な写真になるからだろうか、
それとも、私自身がランジェリーに興味を持たないからだろうか
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それでも、こうして載せているからにはそれなりに理由がある
個の力がみなぎっているからだろう。