未来へのベクトル

こういう「作品」にしたい・・・とい「絵」は頭の中ではできている

ただ、それらを形(作品)にするには様々な試行錯誤を経てゆくことになる

この写真は、Stage 1というところ・・・

まだ、始まったばかり

たぶん、いつものことであるが、頭の中にある「絵」には届かない

その絵に向かう途中に様々な「副産物」が生まれる

この画像もその産物にすぎない

未来へのベクトル・・。

“et cherchent à donner un aspect pictural à la photographie par une vision plus subjective, le refus de la réalité et la transcription de sensations”.

 

モデルとの出会い・・

このようなポートレイトではモデルの人格がそのまま写り込んでしまう

彼女は素晴らしい女性で、現在は一児の母親になっているそう・・

垣間見せる哀愁が漂う・・

写真の奥深さとポートレイトの醍醐味が感じ取れる

この画像を撮ってから僕は写真家になる決意をしたし

彼女はプロのモデルとなっていきました

両者にとっては記念碑的な作品となり

また、「出会い」となりました。

 

Nikon D810 + SIGMA (50mm F1.4 EX DG HSM)

海外ではNikonをナイコンと発音する

写真家のことは、英語ではフォトグラファー

日本ではカメラマン(写真男?)っていうし、

中国では、キャメリスト(Camerist) って言うが、そんな英語はない

まぁ、それぞれの国で使いやすい造語というのがある

この写真は、Nikon D810 + SIGMA (50mm F1.4 EX DG HSM)の組み合わせ

普通にポートレイトなら、この組み合わせがベストかな?と思うことがある

ニコンとシグマの単焦点は非常に相性が良いね

背景のボケ方が美しいというか、肌の質感が素晴らしい

この写真は2016の秋に北京のクラシックカー展示会場での撮影

中国の写真協会からのオファーがあって、

Photo in Bijing 2016 November に参加した時のついでに撮影依頼があって撮ったもの

その後、これらの写真がどう使われたのか・・著作権などはどうなのか・・

その辺のところは分からない

そういうところが嫌だという人も多いが、僕はまったく気にならない

そういう”適当さ”が気楽でいいんだよ

去年は、日本との文化交流に締め付けがあったので、

Photo in Bijing 2017 には参加できなくて・・とっても残念でした

今年は、「招待状」来るのかな?

外国人・特別招待枠なので、20~30枚くらいは展示できる

開場はドームのようになっていて、スペースは球場ぐらいはありそう

今年も無理なのかな・・

習近平さん、独裁色強めてるし、

民主化運動を煽るだろう・・警戒する国の一番手は日本らしい。

 

 

 

 

 

ポートレイトにおける背景画の役割

この背景は、私が一晩かかって縦6m、横2.4mのキャンバスにパステルで描いた

そう・・この時は、ボッティチェリの絵画のような写真を撮りたかった

また、ピカソの青の時代を思わせる色彩にも憧れていた

まだ、写真を始めて3年目だったと思う

いろいろなことに挑戦してみたかったのかな・・

ところが、この画像が上がってくるのを見て、

自分が撮りたい方向性とは違うな・・と思い、

それ以来、この背景は使ってない。

 

 

方丈記  「ゆく河の流れ」

方丈記  「ゆく河の流れ」

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。

知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

 

「日本には、我々が認める写真家はいない」

「日本には、我々の認める写真家はいない」と言ったのは、ヨーロッパでも名のあるキュレイター。私がフランスのアルルの写真祭に参加した時のこと。「いない・・」と言ったのは言い過ぎで、彼らも認める写真家は数名いるらしい。

なぜそのような言い方をするのか?私の推測では、世界中のプロと言われる写真家のほとんどは日本製のカメラを使っているのに、その素晴らしいカメラを製造する国で、素晴らしい写真家がほとんどいないのはなぜなのか?・・・ということらしい。

今や、世界中の5割以上の人たちがスマホで(日本も含めて)世界中の写真を見ている。この国では名の知られている写真家の写真でも、彼らはほとんど興味を示さない(・・・実のところ、名の知られない写真家にいい写真家はいるのだが)。

その理由を推測してみる・・・この国には「写真」という特別なジャンルがある。絵画や彫刻、書などとは「芸術」として認知されているが、写真は記録する道具(機械)であるという認識が先にある。芸術ではなく、職人芸と言った方が良いかもしれない。したがって、技量(技術)が優先されることであって、アートとして問われる「本質」は二の次になる。日本〇〇協会などを牛耳っている人たちの多くは、芸術家ではなく技術屋さんなのである(彼ら自身もそのことを認識してるように・・)。

では、芸術家と技術屋さんとは何が違うか? 例えば、富士山の写真を撮って、その素晴らしさ(美しさや雄大さ)を上手に伝えれる写真を撮れる人は技術屋さんである。その写真を観た人は、実際にその富士山を見に行きたいと思うに違いない。その写真に感動しているわけではなく、実際にその富士山を観ればどれほど感動的か!と思ってる。芸術(アート作品)であれば、そこに何が写っていようが関係なく、その画像そのものが感動的なのである。

だからと言って、写真屋さんを軽んじているわけではない。「真実」を伝えるという意味では、その技量の確かさが真に問われいることでもあるから。

他にもいろいろな理由がある・・・写真をアートとして楽しむ文化が根ざしていない。グラビアやアイドル写真は溢れている(「かわいいでしょ!とか、セクシーでしょ?」というような媚びの入ったものばかり)。「アート」と対極にあるのは「媚の入ったもの・・」。

それと、世界が認知するような「写真の展示会」がこの国にはない。フランスには(商業的な色合いが濃いが)パリフォト、作品展としてはアルル。イタリアのトリノ、イギリスではロンドン、アメリカはマイアミのアートバーゼル・・・このあたりが世界のメジャーな展示会である。なぜ、そのような展示会が東京にはないのか?いや、むしろ、京都あたりで開催されればよいように思うのだが・・。

 

 

 

写真はアートである方が面白い

この画像はサイズは落としているが、画質は落としてない

このザラザラ感が気に入っている

ただし、展示物のするときは”問題”が生じる

長辺20cmサイズならよいが、

それ以上のサイズではこのザラザラ感が美しく見えないから・・

”写真”というジャンルを超えて、アートであってほしい。