Galerie#1317から「お知らせ」

Galerie#1317から「お知らせ」

緊急事態宣言があったことから、展示会をいったん中止し、6月以降に延期することを決めました。 作品はそのままお預かりし、時期を見計って再開することにします。 5月以降に展示予定の皆様、作品搬入はしばしお待ちください。 ご迷惑をおかけしたこと、深くお詫びします。

<文> Syoudou Sawaguchi

ハイデガーの「存在と無」は余りにも有名ですが、私も過去に何度か読みたいと願って翻訳者の異なる2,3種の訳本に挑戦してみたことがあるのですが、いかんせん、どうやっても読み通すことはできませんでした。それも半分以上ならまだしも、ほとんど最初の部分で諦めたものです。  

とにかく難しい。日本語として訳されているのでしょうが、その日本語としての概念の連続がどうやっても理解できない。言葉が心の中に入ってこない。なんとかならないものかと途方に暮れて結局どうにもならないまま放棄してしまったものでした。  

私たちはこうして生きています。生きているというこの場にあるのはどこまでも存在のみであって、死(あるいは無)はどこにもありません。もちろん死体はあります。けれど死体は死ではなく、死体という存在です。  

私たちという複数ではなく、私という一人称を問題にするともっと焦点がクリアになると思います。  

私はここにこうして生きています。そして生きている限り死んだことはないのですから、私はどこまでも存在しているのみであって、私のどこにも死は存在していないのです。  

私の父と弟はけれど私より先に死んでしまいました。しかし、父と弟は私でなく他者なのです。どんなに深い濃いつながりがあっても、それはしかしどこまでも私以外の他者の死なのです。  

私は死んでません。父と弟が死に、大災害で何万人の人が死のうとそれはどこまでも私自身の死ではなく、私以外の他者の死に過ぎません。  

私は自分が死なないと言っているのではありません。諸行無常は仏教の教えの根本です。どんな生き物、生き物ではない物でも形を変えずに永遠にこの世にとどまることは不可能です。それらは目には見えなくとも日々、瞬瞬刻々、変化し続け、そして生まれたからには必ず死ぬというのが大原則であって、どんな人であっても、例えばお釈迦さまであっても死を免れることはできない、というのが仏教の教えであり、この世の常識でもあるでしょう。  

誰一人としてこの世に生まれたからには必ず死ぬというこの例外のない真理の下では、死というこの冷厳な事実を直視して目をそらさないで見つめ続ける、という強固な意志もまた要求されるのかもしれませんが、しかしどこかの国の諺のように「死と太陽を見つめることはできない」というのも一面の真実なのかもしれません。  

そういう諸行無常の教えを無視して私は自分が死なないといっているのではなくて、いまここのどこにも死はないといっているのです。  

現在世界の各地でばたばたと伝染病で人が死んでいっています。しかしそれらは死ではないのです。死んでしまった人はその瞬間に死体という一つの存在者になるのであって、死そのもではないのです。死はないのです。どこまでも、死はないのです。無いから死なのです。  

なぜならこうして私は生きているからです。  

人の死に対して同情と畏敬の念を持って接することこそ、人間としての倫理であり道徳でもあるでしょう。親しい人の死は後に残された人の心に穴を開け、それは決して完全にふさがることはありません。だからこそ私たちは涙を以てその穴を埋めようとするのですが、しかし心の穴はどんなに涙を流しても埋まることはないのです。  

泣いている限り私は生きています。

Photo-Expo in Setagaya May 2020

・・ 来月の出展予定者 ・・

Jun Takeichi (Jp)

Arto Pazat (Fra) 未定

Misuzu Shibuya (Jp)

Tamaki Wada (Jp)

Ai Tanaka (Jp)

Tatsuyuki Kodama (Jp)

Ryuichi Kato (Jp)

Marco Barsanti (Ita)

Tetsuro Higashi (Jp)

この時勢ですので、世界の郵便物が滞り、作品が到着しないこともあります。

Galerie#1317 Photo-Expo starts at 4th April

Galerie#1317 Photo-Expo starts at 4th April

いろいろと迷いもありましたが、展示会は”静かに”スタートを切りました。

生まれて初めて経験する ”目に見えない戦争”。

この戦いは、早くて1年、長引けば2年続くと思われます。

こちら側からの「告知」はしませんでした。

問い合わせてくださる方々にだけ、お知らせしました。

Koray Erkaya 氏の作品

今回の出展者:Koray Erkaya 氏の作品

この作品は、私がイスタンブールで彼と展示会を共にしたときの

贈り物として、いただいた写真。

ジェンダーの問題と正面から取り組んだ作品。

こういう写真は概して、グロテスクになったりするのだが、

これはとにかく美しい! 

ギャラリーに来られた方にはぜひお見せしたい。

展示はしません。

なぜなら、イスタンブールでは(イスラム原理主義の)1000人のデモ隊が押し寄せましたが、 日本なら、ポリースが来てもおかしくない。

少し前のことですが、「表現の不自由展」とかというのが、

話題になってましたね。ネットでしか作品は観てませんが、

「美意識の不自由展?」とした方がいいんじゃない?と思いました。

天才コメディアンの死

天才コメディアンの死

私と彼(天才コメディアン)とは、生年月日が数日しか違わない。

だから、彼の死は他人事ではないのです。

いつ自分の身にも起こるか・・という意味で。

ネットではほとんど紹介されてない”少々不謹慎”な私見を書き記したい。

例年、インフルエンザ(ウイルス)に感染する人は1000万人~2000万人、

その内、亡くなる方は3000人~5000人(もちろん、高齢者が多い)

今年はインフルに感染された人も少なく、

死亡者も約1000人と例年よりかなり少ない。 

現時点でコロナに感染された人は3000人に満たないし、

亡くなった方は100人もいない。 

そう考えれば、現時点ではウイルスに感染された人も

亡くなられた人も例年よりずっと少ない。

コロナの場合、

無症状の人、軽症の人は感染者としてカウントされることもなく、

感染者の実際の数は分からない。 分かるのは、死者の数だけ。

今年、ウイルスが原因で亡くなられた人は、

現時点では、例年よりずっと少ない。

その意味では、高齢者にとって、今年はラッキーな年かもしれない。

   ・・・ そんなに恐怖を覚えることもないはずだ。

今後、どのような展開となるか分からないが・・

若年層での死者も出ている・・というニュースが流れる。

基礎疾患のあるものは、年齢に関係なくリスクは大きい。

多くの若者にとっては、鼻かぜ程度で全く安全、

感染してても無症状な若者は、

自覚症状もなくウイルスを運ぶのだから、かなり危険な存在。

私の年齢の人間にとっての ”死に至るリスク ” を多い順に並べてみよう。

(1年間・365日に起こるだろう)確率を試算すると、

癌や循環器系の病が原因となる・・・2%

階段を踏み外して頭部打撲などによる不慮の事故・・・1%

エコノミーでEUまで行き来するなどの過労が原因・・・0.5%

このまま、コロナが蔓延し感染により死に至る・・・0.1%

私の年齢ともなれば、毎年3~4%のリスクを背負って生きていることになる。

100本のくじがあって、その中に外れくじが3、4本ある。

  いやだいやだ・・

こんなところが、”妥当”な数字ではないか・・と思う。

私は基礎疾患はないので、感染しても重症化することもないだろう。

私が死んじゃうようでは、日本の人口は20%減となりそうだ。

まあ、”お荷物”がいなくなると思えば、それでも良いのだが・・

サノ・ディ・ピエトロの作品を抽象化

サノ・ディ・ピエトロの作品を抽象化して木炭デッサンしてみました。

<文> Syoudou Sawaguchi

自分の言っていることが無限後退に陥るかそうでないかは、その時そこでよく踏みとどまって反省してみなければわからない事柄に属するのでしょうが、取りあえず今ここではこう言いたいのです。

 人が観念を作るのではなく、観念がその人をその人として作っていっているのです、と。  

いま私たちは必ず後世の歴史に大きく刻まれるであろうと思われる世界史的な大事件に直面しているのですが、それに対する一人一人の観念は実に多様であり、多くの人々を納得させるような大きなある一つの物語にまとまっていくようには見えません。  

それは勿論私たち全員が現在進行形の先の見えない、到着点の存在さえおぼつかないような曖昧模糊とした空間に投げ込まれているからであって、教科書的な万人向けの物語が語られるには余りにも生々しい現実が私たちを圧倒しているからでしょう。  

つまり私たちはこの大事件に立ち向かうには実に頼りない小さな弱弱しい理性の明かりしか手にすることができずに、この事態に対して混乱し、全体を見通すことができないまま、種々雑多な情報の海に溺れてお互いに助けを求めている状態なのではないでしょうか。  

様々な情報、観念が錯綜している中で何を自分が取るかはしかし、実は自分が主体的にある一つの情報、観念を選んでいるのではなくて、実は自分のほうがその中の情報、観念に否応なく選ばれている、とも言える、ということを実はここで言いたいのですね。  

大きな物語、観念はすでに自分の中にあるのです。  

その観念が自分にふさわしい同類項の観念を引き寄せ、より自分らしい自分を日々形成していっているわけです。そしていったん形成された自分を自分としているその観念は物ではないのですから、目には見えず、耳にも聞こえず、匂いも味もなく、触ることができないという、ほとんどウイルスと同じようなものなのです。  

要するに私の中の観念は自分ではどうすることもできないまま、コントロール不可のまま日々自分を作っていっているのですから、それはもはや自分に一番近くて一番遠い何かとして存在していると言ってもいいものになっている訳です。  

ウイルスは敵なのでしょうか、味方なのでしょうか、それとも敵でもない味方でもないもの、としての何かなのでしょうか。  その答えは一人ひとりのすでに自分の中にある観念が選んでいることでしょう。  そうではあっても、この混沌とした現実を生きている以上、より共感できる振幅の広い物語が現れるまで、私たちは自分の観念に寄り添いながらも、よろけながら歩いていくより外はないのではないかなと思われます。