サノ・ディ・ピエトロの作品を抽象化

サノ・ディ・ピエトロの作品を抽象化して木炭デッサンしてみました。

<文> Syoudou Sawaguchi

自分の言っていることが無限後退に陥るかそうでないかは、その時そこでよく踏みとどまって反省してみなければわからない事柄に属するのでしょうが、取りあえず今ここではこう言いたいのです。

 人が観念を作るのではなく、観念がその人をその人として作っていっているのです、と。  

いま私たちは必ず後世の歴史に大きく刻まれるであろうと思われる世界史的な大事件に直面しているのですが、それに対する一人一人の観念は実に多様であり、多くの人々を納得させるような大きなある一つの物語にまとまっていくようには見えません。  

それは勿論私たち全員が現在進行形の先の見えない、到着点の存在さえおぼつかないような曖昧模糊とした空間に投げ込まれているからであって、教科書的な万人向けの物語が語られるには余りにも生々しい現実が私たちを圧倒しているからでしょう。  

つまり私たちはこの大事件に立ち向かうには実に頼りない小さな弱弱しい理性の明かりしか手にすることができずに、この事態に対して混乱し、全体を見通すことができないまま、種々雑多な情報の海に溺れてお互いに助けを求めている状態なのではないでしょうか。  

様々な情報、観念が錯綜している中で何を自分が取るかはしかし、実は自分が主体的にある一つの情報、観念を選んでいるのではなくて、実は自分のほうがその中の情報、観念に否応なく選ばれている、とも言える、ということを実はここで言いたいのですね。  

大きな物語、観念はすでに自分の中にあるのです。  

その観念が自分にふさわしい同類項の観念を引き寄せ、より自分らしい自分を日々形成していっているわけです。そしていったん形成された自分を自分としているその観念は物ではないのですから、目には見えず、耳にも聞こえず、匂いも味もなく、触ることができないという、ほとんどウイルスと同じようなものなのです。  

要するに私の中の観念は自分ではどうすることもできないまま、コントロール不可のまま日々自分を作っていっているのですから、それはもはや自分に一番近くて一番遠い何かとして存在していると言ってもいいものになっている訳です。  

ウイルスは敵なのでしょうか、味方なのでしょうか、それとも敵でもない味方でもないもの、としての何かなのでしょうか。  その答えは一人ひとりのすでに自分の中にある観念が選んでいることでしょう。  そうではあっても、この混沌とした現実を生きている以上、より共感できる振幅の広い物語が現れるまで、私たちは自分の観念に寄り添いながらも、よろけながら歩いていくより外はないのではないかなと思われます。

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