
Japanese photographer circumstances
日本の写真家事情・・ある写真家の方に
「日本では、絵画と比べて写真の立ち位置が低いのはなぜなのだろうか?」
というメッセージ(質問状)を頂いた
そのことについて、僕の図り知る範囲で(事情)を列挙してみる
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戦後の70年を遡って、その歴史を考えてみる
絵画であれば、デッサンから始めて、
一人前の画家を名乗るにはそれなりの訓練を必要とする
(稚拙な作品は誰の眼にも簡単にわかる)
ところが、カメラを持てば誰でも写真家は名乗れる
シャッターを押せば、それらしい画像は誰にでも簡単に得られる
だから、「もしかして、自分は才能があるかもしれない」
という錯覚も起こりうる
この「誰にでも・・」という事情が写真の立ち位置を下げる要因になっている
ところが、現在では、この「誰にでも・・」という事情が
フォトグラファーの絶対数を増やし、
アート分野で「写真家として一流であること」が最も険しい道のりにもなりうる
同様なことは、誰にでもチャンスがあるサッカー選手、
音楽分野ではギタリストもしかり・・母数が多ければその道は険しい
情報化社会は進み、グローバルにその作品は比較され、評価される
半世紀前なら、ある地域(日本)で一流と言われても、
世界に出れば「ただの人」になってしまう
確かなことは、写真を撮るカメラだけはダントツにこの国が一番である
ただし、撮る技術、編集レベル、アート性においては
海外には、強者はごろごろしている
アジアカップに勝てても、ワールドカップではそうはいかないことに似ている
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専門的研究分野に関しても、同様な危機感を唱える人が多くいる
官民一体となって成功した時代(1950~1980)感覚が抜けないでいる
組織第一主義に陥り、そこに胡坐をかいている輩がまだまだ多い
興味深い研究に民間がその費用を出せる状況にない
この国の生命線ともいる先端技術に後れをとることになる
写真の世界においても、○○協会などという組織(群れ)を成そうとする
”身内”で盛り上がっていれば、それで済んでしまう(食べていける)
そもそも、アートと言うのは「個の美意識の領域」にある
群れを成すこと自体が甚だ違和感を生じる
組織優先ともなれば、それを嫌う写真家は浮かび上がらない、飯が食えない
海外に出るか、ひっそりと写真家を続けていくことを強いられる
要は、有能な写真家が育たないという状況を続けているということ
( FBで繋がっているだけでも、この国でも優れた写真家を多く知っている。 グラビア写真が撮れないという理由なのか、撮る気もないのか、、、写真では飯は食えないのだろう)
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これも僕の知る範疇でしかないが・・メーカー主体の展示会が多い
ハイアマチュアを名乗るお金持ちに高価なカメラを買わせるのがその目的
カメラの高性能さを示せる作品であることが優先され、
アート性などはどうでもよいように思う
写真とはこの程度のものか・・と、見下すアート関係者がいることは否めない
ここでも、写真の立ち位置を下げている
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それと、写真の利便性にもその要因があるようだ
様々な報道分野、ドキュメンタリー、コンビニで見かけるグラビア写真など・・
絵画に比べれば、その用途が広いだけに、
相対的にその価値が”軽く”考えられがちなのは頷ける。
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私は、EUでの展示会しか知らないが、
アート作品(分野)にはそれぞれの有する優位性がある
彫刻であれば立体であり、絵画であればその画肌の質感にある
このように考えるとき、
写真の優位性をプレゼンできない作品は展示に値しない。