観る者と被写体との距離だった

model:nyataoshi ( Instagram )   photographer : syuppo

撮影現場は極めて静かで、言葉も少なかった。私からの指示は最低限。「そこに座って、ただ呼吸していてください」とだけ伝えた。その言葉の重みを理解しているのか、彼女は本当にただソファに腰かけ、身体を預け、そして無言でその空間に“存在”していた。視線は床のどこかを見つめ、指先は軽く組まれている。その姿勢の中に、私は何かしらの「距離感」を感じ取った。それは、私と彼女、あるいはカメラとモデル、さらには観る者と被写体との距離だった。

「作り込まれた無関心さ」

被写体となった彼女は、典型的な“グラビアモデル”のようにレンズを見つめて微笑むことはしない。視線を外し、身体のポジショニングにもどこか投げやりな自然体が漂う。だがそれが演技であるとわかったうえで、私は彼女の「作り込まれた無関心さ」に強く惹かれた。彼女は“カメラに媚びない”という一点において、極めて誠実であった。視線を外すこと、笑わないこと、ポージングに緊張感を持たせないこと。これらすべてが、意図的に組まれた非演出の演出だった。

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「手業」への信仰と芸術観の違い

「手業」への信仰と芸術観の違い

日本において「芸術=時間と手間をかけて作られたもの」という価値観が根強いことも、写真と絵画の分離を促す一因になっている。絵画は、画家が筆を持ち、構想し、時間をかけてキャンバスに表現する行為であるのに対し、写真は「カメラのシャッターを切るだけ」という印象を持たれやすい。

もちろん、実際の写真制作は、構図、光、被写体、ポストプロセスなど多くの判断と技術が必要であり、単なる「一瞬の記録」ではない。しかし、その創作過程が視覚的にわかりづらく、また「機械によって生まれるもの」として誤解されやすいため、日本においては「労力が見えにくい=芸術性が低い」という無意識の評価がつきまとう。

これに対し、ヨーロッパでは近代以降の芸術思想において、「手業の有無」よりも「コンセプト」や「表現の新しさ」が重視されるようになった。マルセル・デュシャンが便器をアートにしたように、「何を表現するか」「それが時代や社会とどう対峙しているか」が重要視される。こうした思想は現代アートの根底にあり、写真もその文脈の中で当然のように「芸術」として受け入れられる。

この「芸術の基準」の違いが、写真の扱われ方に大きく影響している。

写真と絵画──日本と欧州における「アート観」の違いについて 

日本において、写真と絵画はしばしば「別のジャンル」として明確に区別されている。美術展においても、「油絵・日本画」「写真展」といったように展示そのものがジャンルごとに分けられ、また教育や批評の場面でもそれらは異なる系統として扱われがちである。対して、欧州──特にアート市場や美術館文化の根付いたEU諸国では、写真と絵画を「別のジャンル」としてのみならず、共に「アート」として並列に捉え、同じ美術的価値の土俵に置く傾向がある。

こうした違いは、単なる文化の差異というよりも、それぞれの地域における美術史・教育・社会的価値観の蓄積に起因するものだと考えられる。本稿では、その背景を歴史的・文化的な視点から考察し、なぜ日本では写真と絵画が明確に区別されやすく、欧州ではより統合的なアートとして認識されるのかを論じていきたい。 

「お尻に目が行くとき」

「お尻に目が行くとき」

西洋美術史の中でも、女性の背面像は繰り返し描かれてきた。ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』、ルーベンスの豊満な裸婦たち、近代ではエゴン・シーレの挑発的な後ろ姿。そこにあるのはエロティシズムだけではなく、生命感と存在のリアルが混じり合った「人間のフォルム」だ。

日常の視線でも似たような瞬間がある。例えば、街中で偶然すれ違った人の後ろ姿に、何か惹かれて振り返りそうになることがある。別にいやらしさを求めているわけではない。けれど、形、リズム、重心、そのすべてに「人間らしさ」が凝縮されているとき、視線は抗えない。

そして私は、自分が見ているのが「お尻そのもの」ではなく、その奥にある「フォルムと存在の魅力」だということに気づく。女性の身体に対する敬意、美しさへの素直な感動。芸術がそれを許すのなら、日常の中でも私たちはもっと素直に、人間の形を愛していいのかもしれない。

もちろん、視線には責任が伴う。無自覚なまなざしは暴力にもなり得る。しかし、見つめるという行為が、理解や感動の入り口であるのもまた事実だ。芸術に学ぶなら、「見ること」はもっと誠実であっていい。

お尻に目が行くとき、それは「美しさに出会った瞬間」なのかもしれない。そしてその視線が、単なる欲望で終わらず、理解と感謝へつながっていくのなら――私たちは、もっと自由に、もっと深く、「見る」ことができるのではないだろうか。

終末のイメージと向き合う

終末のイメージと向き合う

「このような悲惨な終末的なイメージを受け入れることができる人は、達観した精神を持ち合わせる人か、心底、楽観的な人かもしれない……」と、ふと思った。

しかし、そう考えた次の瞬間、むしろこう思わずにはいられなかった。
本当は、そういう人たちは、すでに何かを諦めてしまっているのではないかと。

写真家の「覗き見る」感覚

覗き見る、という距離感

撮影をしているとき、ふと、自分が「覗き見ている」ような感覚になることがある。

それは盗み見のような後ろめたさではなく、むしろ、誰かの繊細な時間にそっと触れようとする遠慮に近い。たとえば、ふすまの隙間から、光の漏れる静かな部屋をそっと覗くような——そんな距離感。近づきすぎれば壊れてしまいそうな空気。声をかける代わりに、シャッター音だけがそっと響く。

写真家としての視点には、時に「見せてもらっている」という感覚がある。

表情も、仕草も、何かを演じているようで、ふとした瞬間に素がこぼれる。その一瞬を狙っている自分がいて、でも、それを「撮っていいのか」とためらう自分もいる。だからこそ、カメラを通すことで、ほんのわずかな距離を置いて、そっと覗くようにフレームを切る。それは撮影というより、感情の輪郭をなぞる行為に近い。

表現には、前に出て掴みにいく強さも必要だけれど、僕が惹かれるのは、その逆のような写真だ。

すべてを明るみに出さず、余白を残し、語らずに漂うもの。見えそうで見えない、聞こえそうで聞こえない。そうした曖昧さの中にこそ、人の本質や温度が宿るように思えてならない。そして、それを捉えるには、レンズをただの道具としてではなく、「そっと覗くための窓」として使うしかない。

だから僕は、今日も少し離れたところから、静かにシャッターを切る。

ふすまの隙間から覗くように、誰かの心の風景をそっと覗き込む。その一瞬を記憶に変えるために。

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photographer : syuppo

モデルの撮らせるという力

モデルの撮らせるという力

ときどき、撮ろうと思っていないのに、カメラを構えてしまっていることがある。

そこにいるだけで空気を変えてしまうような人。喋るでもなく、ポーズを取るでもなく、ただその場に立っているだけなのに、なぜか「今だ」と感じてしまう瞬間がある。言葉にするなら「存在感」という言葉が近いのだろうけれど、それはとても抽象的で、うまく言い表せない。

モデルの存在感が強いとき、写真家は自分の意思でシャッターを押しているようで、実のところ、すでに「撮らされている」。自分の中にある表現欲や美意識を、モデルの佇まいが静かに、でも確かに刺激してくる。ポーズや光の加減を考えるよりも先に、心が動いて、指が動いて、シャッターが切られている。

良いモデルには、そういう「撮らせる力」がある。

それは外見的な美しさや、テクニックとしてのポージングとは少し違う。むしろ、自分の内側を削り取ってでも、何かを表現しようとするような、静かだけれど強い意志のようなもの。そうしたものがふとした仕草や目線に滲み出てきたとき、写真家はその一瞬を逃したくないと、無意識にレンズを向けている。

こちらが「撮る」のではなく、モデルが「撮らせる」。

その関係性が成立したとき、写真は記録から芸術へと変わる。テクニックや機材では届かない領域に、ほんの一瞬だけ触れられたような感覚。写真家としての幸福は、たぶん、そういう瞬間にあるのだと思う。

model : kuroneko-koyomi  photographer : syuppo