話題と言うより”感性を共有出来てないこと”

最近、良いことが二つあった・・

一つは、ドジャースが強豪フィリーズにとりあえず1勝したこと。

もう一つは、日本の首相が代わること。

上の二つのことに興味を持っている人は意外に少ないこと。

子供の頃は、自分を騒がしてることは他人をも騒がしてることが多く、

普通に話題を共有できたが、最近では難しい。

スマホで音楽を聴いてる人は多いが

何を聴いているかを確認してみると

僕の聴いたことがないような楽曲を聴いている。

僕がオヤジのせいもあるだろうが。

話題と言うより”感性を共有出来てないこと”に若干の寂しさを覚える。

レンブラントを想わせる写真

レンブラントを想わせる写真を観ながら、絵画と写真の関りを再考する

光と影が織りなす劇的な構成、重厚な質感、そして被写体の内面を深く照らし出すような表現。レンブラントの絵画に触れると、私たちはその明暗の対比に引き込まれ、画面の奥深くにある物語を読み取ろうとする。そして、ある種の写真作品を目にしたとき、それがまるでレンブラントの筆致をなぞるかのように、同じ感覚を呼び覚ますことがある。

現代において、「レンブラント的な写真」とはどのように解釈されるのだろうか。写真は絵画から何を受け継ぎ、何を新たに創造したのか。その関係を再考することは、美術の歴史における二つのメディウムの交錯を理解する上で、重要な示唆を与えてくれる。

光の彫刻としての写真

写真は、技術的にはレンブラントの時代には存在しなかったメディウムであるが、その精神的な系譜を辿ると、彼の光の操作方法に深く根ざしていることがわかる。17世紀のオランダ黄金時代、レンブラントは「キアロスクーロ(明暗法)」を極め、光が人物の感情や物語を強調する手法を確立した。それは、現代の写真家がライティングを用いて被写体を形作る方法と本質的に通じるものである。

たとえば、アメリカの写真家アーヴィング・ペンの肖像写真を見てみると、被写体の顔に落ちる影の深さが、まるでレンブラントの描く人物像の彫刻的な存在感と一致していることに気づくだろう。あるいは、フランスの写真家サラ・ムーンの幻想的な光の操作も、レンブラントが内包していた静謐なドラマを想起させる。このように、写真家たちは光を操ることで、まるで古典絵画のような質感を生み出している。

写真は絵画の模倣か、それとも独自の表現か

19世紀に写真が発明されたとき、それは絵画の模倣としての役割を与えられた。しかしすぐに、ピクトリアリズム(絵画的写真)といった動きが生まれ、写真は「芸術になり得るのか」という問いとともに進化を遂げる。20世紀以降、写真はドキュメンタリーやコンセプチュアル・アートとして発展し、絵画との距離を広げるように見えた。

しかし、現代の写真家たちは、レンブラントの技法を再構築することで、絵画と写真の関係をもう一度結び直している。たとえば、フランスの写真家パスカル・メテュルの作品は、オランダ・バロックの光を忠実に再現しながらも、デジタル技術を駆使して、古典絵画にはなかったディテールの精密さを追求している。これは、写真が単なる「レンブラント的な」再現ではなく、写真ならではの新しい表現を模索していることを示している。

写真における時間の概念

絵画と写真のもう一つの決定的な違いは、「時間」の扱いである。レンブラントの絵画は、画家の意図と筆の重なりによって長い時間をかけて構築されるのに対し、写真は一瞬の光を捉えるものだ。しかし、写真家がレンブラント的な手法を取り入れるとき、それは単なる一瞬ではなく、「時間を内包するイメージ」へと変貌する。

たとえば、ルイーズ・ダルモンの作品は、スローシャッターや多重露光を駆使して、人物がまるで絵画の中から浮かび上がるような効果を作り出している。このような技法によって、写真は「一瞬を切り取る」ものではなく、絵画と同じように「時間を蓄積する」表現へと進化する。

絵画と写真の相互作用

レンブラント的な写真を観ることは、単に美術史の引用に留まらず、写真が持つ可能性そのものを再考する機会でもある。絵画と写真は、模倣と創造の関係を繰り返しながら、互いに影響を与え続けてきた。デジタル時代においても、光の演出、質感の追求、そして時間の概念をめぐる探求が続く限り、両者の対話は終わることはない。

今日、レンブラントの影を宿した写真に向き合うとき、私たちは単なるノスタルジーではなく、芸術の本質としての「光」の在り方に向き合っているのかもしれない。それは、写真が単なる記録を超え、レンブラントの絵画と同じように、人間の存在そのものを問う芸術になり得ることを示している。

model : kuroneko koyomi  instagram : kuro.neko216

鏡に私の姿を映してみる

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鏡に私の姿を映してみる

朝、ふとした拍子に鏡と目が合うことがある。

着替えの途中だったり、洗面台の前で何気なく顔を洗ったあとだったり。そんな何でもない日常の中で、突然鏡が「今の私」をこちらに投げかけてくる。

今日もそうだった。

ふと顔を上げたとき、そこにはまっすぐに私を見つめ返す「私」がいた。
髪は少し乱れていて、目元には眠気が残っている。肌には年齢の積み重ねがゆっくりと現れはじめ、笑った痕跡がうっすらと刻まれている。
それでも、私はその姿を見つめながら、なぜか微笑みそうになった。

「ああ、悪くないじゃない」

以前の私なら、まずため息をついていただろう。
あれが足りない、これが足りない。
もっとこうすればよかった、もっと美しくなれたかもしれない、もっと強く、冷静に、賢くふるまえたらよかったのに――と、そんな「足りなさ」にばかり目を向けていた。
鏡に映る自分は、どこかしら未完成で、不完全で、物足りない存在だった。

でも今は違う。

そこに映っている私は、確かに欠けている。完璧なんてほど遠い。
けれど、私という人生を甘く、静かに、享受している。
痛みや後悔、失敗もたくさん積み重ねてきた。
それでも、それらすら愛おしい記憶として、この顔に刻まれている気がするのだ。

まるで、長年連れ添ってきた親友をふと見つめるような、
「よくここまで来たね」と、そんな声をかけたくなるような気持ち。
それが、今、鏡の前の私に向けて湧き上がってくる。

選ばなかった道、選べなかった未来、壊してしまった関係、守れなかった想い

nyataoshi through syuppo’s lens

「カメラに媚びないモデル」が持つリアルとフェティシズムの境界線

私がこの作品を撮影するにあたって最も意識したのは、「演出されていないように見える演出」という一見矛盾したコンセプトをどう写真として成立させるか、という点だった。古びた洋間、くたびれたレザーソファ、そして下着姿のモデルという構図は、一歩間違えればあからさまなエロスに落ちかねない。しかし、私が求めていたのはそういった類の視線誘導ではなかった。むしろ、モデル自身が持つある種の「無関心さ」や「放置感」、さらには「開き直ったフェチズム」こそを視覚的に記録したかった。

model:nyataoshi ( Instagram )  photographer : syuppo

“固定された記録”から“流動的な記憶”

また、「カメラに媚びない」姿勢が与える影響は、写真の持つ物語性にも大きく関わってくる。モデルが笑ったり、カメラを見つめてポーズを取った瞬間、その写真には“意図”が明確に生まれてしまう。誰に見せたいのか、どう思われたいのか——そういった意識が写り込む。しかし今回のモデルにはそうした要素が希薄であり、だからこそ「誰のためでもない存在」としての写真が成立した。それは逆説的に、見る側に強く訴えかけてくる。なぜこの女性は笑わないのか、なぜこの構図で、なぜこの空間なのかと——。

写真という表現は、常に「見る人に委ねる」部分がある。私はシャッターを切ることで何かを決定しているように見えて、実は“余白”を残すことを常に意識している。モデルの自然体というのは、単なる無表情や無関心ではなく、見る側に想像を促す“余白”の提供に他ならない。言い換えれば、被写体の中に“物語の導線”を意図的に残しておくことで、観る者はそれぞれの解釈を持ち込むことができる。その結果、写真は“固定された記録”から“流動的な記憶”へと変わっていく。

最終的に私がこのシリーズで目指したのは、エロティシズムの排除ではなく、その再定義だった。単なる肌の露出や視線の艶かしさではなく、「ただそこに存在していること」そのものにエロスを見出す——そんな視点で写真を構築した。モデルがカメラに媚びないということは、ある意味で、観る側にも媚びないということだ。そうした作品が生まれた時、私は初めて「記録者」としてではなく「媒介者」として機能したような気がする。

この作品が誰かにとっての「フェチ」に触れ、心のどこかをざらつかせるものであれば、私はそれを喜びとして受け取る。写真は、言葉以上に正直な“嗜好の鏡”だからこそ、撮り手にも、観る者にも、静かに問いかけてくるのだ。

model:nyataoshi (instagram)  photographer : syuppo

“プライベート”と“演出”の中間地点を意識

「下着姿」という設定も、必ずしも性的な意味では使用していない。そこには“プライベート”と“演出”の中間地点を意識している。服を脱いでいることで生じる身体のラインや、肌とソファの接触、視線の不在——そういった要素すべてが“裸”ではなく“晒す”という行為に近い。つまり、身体を見せることによって、自分の一部を差し出しているのだが、それは性的な誘惑ではなく、むしろ“フェティッシュな自己開示”に近いといえる。

model : nyataoshi (instagram)

写真とは「誰かのフェティシズムを記録するもの」

model:nyataoshi ( Instagram )   photographer : syuppo

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私は常々、写真とは「誰かのフェティシズムを記録するもの」だと思っている。それは必ずしも性的な意味ではない。たとえば、古びた革の質感に惹かれる人がいる。時代の色に染まった建具や、日差しによって擦り切れた壁紙の褪せ方にエロティシズムを感じる人もいる。つまり、フェティシズムとは“こだわり”であり、“執着”の記録でもある。このシリーズは、被写体自身のフェチ、あるいは私のフェチ、またはそれを観る第三者のフェチが重なり合う構造になっている。だからこそ、あからさまなエロスを排し、むしろ“抜け感”や“無防備さ”を強調することで、見る人の内面にある何かをチクリと突くような写真を目指した。