
時を経て、今なお美しく輝く写真
Tetsuro Higashi Photograph Nude



Nude 私の作品分の中では、初期に位置する。 カメラワークというよりも、モデルのポージング力に助けられている感が強い。 私の初期の作品群では、ライティングに特徴があって、人物を両サイドから挟み撃ちにするような気仮の当て方をしている。 このようにするのは、私の趣味・嗜好であり、背景に影が映らないという”特性”がある。 この場合は、背景が黒なので影が出来るかできないか・・はその意味を持たないが、背景が明るい壁のような場合、顕著な差が出てくる。 これ程までに磨き上げられた美しい体は珍しい、希少価値がりますね。 皮下脂肪がほとんどないこともあって、肌の質感、腱と筋肉、骨格の仕組みがとても”分かりやすく”なっている。

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——希少性が生む身体表現の転位——
体操選手がヌードでポージングする画像は、表現史的に見てきわめて稀少な存在である。その希少性は、単に被写体の特殊性に由来するのではなく、スポーツ身体とヌード表現という異なる文脈が交差する地点に立ち現れる緊張関係に起因している。
体操競技における身体は、機能と成果に徹底的に奉仕する存在である。筋肉は演技のために存在し、柔軟性や均衡感覚は得点へと換算される。その身体は通常、競技用の装束と規範の中で提示され、「見るための身体」ではなく「評価される身体」として位置づけられている。したがって、その身体がヌードとして提示されるとき、競技文脈から完全に切り離され、純粋に形態としての身体が前景化する。
ヌードでポージングする体操選手の身体は、自然身体でも理想化された美術モデルでもない。それは、時間と反復、意志と抑制によって構築された「成果としての身体」である。筋群の配置や関節の可動域、身体軸の精度は、偶然の産物ではなく、訓練の集積によってのみ成立している。この点において、当該画像は、人体を自然物として扱う従来のヌード表現とは異なり、人為的に彫刻化された身体を提示している。
この身体がとるポージングは、競技動作の再現ではない。むしろ、競技から抽出された要素——緊張、伸展、均衡——が、静止の中で再構成されている。ここでは動きそのものではなく、動きが生じる直前、あるいは直後の身体状態が可視化される。この静止と運動のあいだに位置する表情は、運動を分解し再構築しようとした未来派の問題意識や、単一視点を拒否したキュビスムの身体理解とも共鳴する。
また、この種の画像が「レア」である理由は、制作過程にも関係している。体操選手がヌードでポージングするためには、被写体側に高度な自己認識と身体理解が求められ、同時に、撮影者との強い信頼関係が不可欠となる。ここで成立しているのは、見せる/見られるという単純な関係ではなく、身体をどのように意味から解放するかという共同作業である。
エロティシズムとの関係においても、この画像は特異な位置を占める。裸体であるにもかかわらず、視線は性的差異よりも構造や緊張へと導かれる。身体は欲望の対象としてではなく、鍛錬の痕跡を刻んだ造形物として現れる。この距離感が、画像を消費的なイメージから引き離し、アートの領域へと押し上げている。
結論として、体操選手がヌードでポージングする画像は、身体を自然でも記号でもなく、時間と意志によって形成された構造体として提示する点において、極めて希少なアート表現である。そのレアリティは話題性ではなく、成立条件の厳しさに由来する。そこに写っているのは裸そのものではない。人間が自らの身体をどこまで作り替え得るのか、その限界と可能性が、静止した一枚の中で凝縮されているのである。

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Tetsuro Higashi Photograph illusion
https://tetsurohigashi.com/portfolio/tetsuro-higashi-photograph-1/

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Body Painting に興味のある方はこのページを参考にされると良いです。 絵具・顔料は毒性のないものを使用すること。 100均の絵の具は信用できないので、国産の子供用水彩絵の具を使うとよい。 子供が使うことを前提としているので、舐めたり飲んだりしても無害であるから。 この場合も、高級な絵具は毒性のある顔料を含む可能性があるので使わないこと。
私の場合は、モデルと私の二人でペイントから撮影までをこなすので、途中の段取りはスムーズにいくように予め決めておきます。 描くときは、モデルが両手両足を開くような立ちポーズとするとよい。 全身くまなく描くので、少なくとも1時間はかかると思ってよい・・それでも、かなり速い。 それから、途中休憩せず、短時間で撮っていく。 絵具は乾き始めると肌からはげ落ちていくので、素早く撮影することが肝心。 それから、書き遅れたが、予め用意して片栗粉をお湯で溶き、とろみをつけておき、それに顔料を混ぜて使うとよい・・片栗粉を使用することによって、撮影が終わり洗い落とす際に簡単になる。 絵具を直接使用すると、肌にしみてしまい落としにくいことになるので気を付けましょう。

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このプリジェクトでは、素早く描き上げるため、絵具は7色に限定しました。 素肌がキャンバスとなるので、その肌色を活かしたペイントをすること。 撮影の祭も同様だが、ペイントでも肌には触れないこと。

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体操選手がヌードでポージングする画像

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ここに載せている画像のほとんどはNikonで撮っている。 D3 D4 D810 D780 など。 カメラのクオリティーが上がればそれだけ、撮影は易しくなる。 高画質になりシャッタースピードは上がるので、ブレが無くなる。 基本、下べ手の画像はカラーで撮れてしまうので、モノクロにする際は編集ソフトにより”様々なモノクロ”が出来るのでとても面白い。 この場合は、「紫外線効果」を使いました・・布を透して肌が良く見える。
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——機能美から造形美への転位——
体操選手がヌードとなり、その鍛え上げられた肉体を提示する行為は、身体を競技成績のための「道具」から、純粋な造形対象として再定位する試みである。本論では、この表現がいかにしてスポーツの領域を越え、アートとして成立し得るのかを検討する。
体操競技における身体は、合理性と効率性を極限まで追求した結果として形成される。筋肉は誇示のためではなく、運動の必然として存在し、骨格と筋群は重力と回転に抗するために最適化されている。こうした身体は本来、機能性によってのみ評価される存在である。しかしヌードという形式を介在させた瞬間、その身体は競技文脈から切り離され、機能を超えた形態そのものとして立ち現れる。
ここで提示される肉体は、自然発生的な身体ではなく、長年の反復訓練によって彫刻化された存在である。その意味で体操選手のヌードは、古典彫刻が理想身体を追求した姿勢と通底する。たとえば、人体を比例と均衡の体系として捉えた古典美術において、肉体は精神性や理念を担う媒体であった。同様に、本表現においても、筋肉や関節は単なる解剖学的要素ではなく、意志・時間・鍛錬の堆積を可視化する造形言語として機能している。
また、この身体表現は、近代以降のアートが試みてきた「運動の可視化」とも接続する。静止したヌードでありながら、体操選手の身体には、跳躍、回転、着地といった動作の記憶が内包されている。これは、時間を一瞬に凝縮するという写真の特性とも相まって、単なる静止像ではなく、時間を孕んだ彫刻的イメージを生み出す。こうした態度は、運動を分解し再構成した未来派や、複数の視点を同時化したキュビスムの思考とも共鳴する。
さらに重要なのは、ヌードであるにもかかわらず、そこにエロティシズムが主目的として存在しない点である。鑑賞者の視線は、性的差異よりも、筋の走行、関節の角度、身体軸の緊張へと導かれる。ここでのヌードは「欲望の対象」ではなく、「構造を読むための表面」であり、身体は感情を喚起する存在というよりも、読むべき形態として提示される。この距離感こそが、本表現をアートの領域に引き上げている要因である。
体操選手のヌードは、完成された理想像を提示する一方で、人間が時間と反復を通じて自己の身体を作り替えてきた過程をも沈黙のうちに語る。そこには偶然性や自然美はほとんど介在しない。あるのは、意志によって形成された形態と、その結果としての均衡である。この点において本表現は、「自然としての身体」ではなく、「構築された身体」を主題とする現代的身体表現と位置づけられる。
結論として、体操選手がヌードとなり、その見事な肉体を提示する行為は、スポーツとアート、機能と造形、時間と静止という二項対立を横断する試みである。それは身体を消費するためのイメージではなく、身体そのものを思考対象へと変換する視覚装置である。この沈黙した身体は、語らずして、人間が自らの肉体をいかにして彫刻してきたかを雄弁に示している。
Tetsuro Higashi Photograph Body Painting

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今週から来週にかけて撮影が続けて入っている。 感染症は大流行りだが、撮影を延期するつもりはない。 新たなモデルさんと7年くらい前に一度撮影したことのあるダンサー。 そのダンサーを撮って、FB上で多くの人に知られるきっかけとなったように記憶している。 あれから7年が経ち、今回は「マタニティー」撮影。 ‥感慨深いね
Tetsuro Higashi Photograph collaboration