「過労死」

日本語には過労死という熟語はありますが、たぶんですが、他国にはそのような熟語はないと言われてます。 「働きすぎに因って、死に至る」というフレーズはありますが、一語(熟語)としてはない、そういう概念はないということ。

普通に考えれば、生きるために働くわけですから、働きすぎて死に至る・・という考え方はあり得ないわけです。 ・・これって、日本では「そうなんだろうなぁ・・」と受け入れてますが、諸外国では理解できないわけですね、当たり前ですよね、(生きるために仕事する。 仕事しすぎて死んじゃう)は本末転倒してるわけですから。

神風特攻というのも同様で、生きるために戦うわけですし、死を覚悟して戦い死んでいくとは理解不能なわけです、諸外国では。 イスラムでのジハードが「戦って死ねば天国へ行ける」というのは過激な宗教ですね、幼少時からまともな教育も受けずに洗脳されているので、そういうことになるのですが、世界一早く義務教育を実施していた日本で、「お国のために死ぬ」ということに”合意”できるということ自体、信じがたいわけです。 ”洗脳”されていたことではなく、”合意”されていたことなんですね、そこがこの国の”ヤバイ”ところなんです。 

To be misty

シャッターの奥にある「問い」──写真が記録から思考へと変わるとき

シャッターの奥にある「問い」──写真が記録から思考へと変わるとき

風景が美しいと感じたとき、私たちは自然とシャッターを切る。
朝焼けが雲を淡く染めていく瞬間や、夕暮れの街角に立ち尽くす人の後ろ姿。
あるいは、ガラス越しにこぼれる午後の光が、テーブルの上のカップに反射しているような、なんでもない情景。

そうした光景は、たしかに「美しい」。
写真は、そんな美しさを「一瞬の記録」としてとどめる、優れた道具だ。
その意味において、写真は、長らく「時の保管庫」としての役割を担ってきた。
見逃してしまうような細部を留め、変化していく世界を固定し、再び思い出させてくれる。

だが、私は最近、こうした写真の役割に物足りなさを覚えるようになってきた。
正確に言えば、「記録としての写真」の在り方そのものではなく、その先にある可能性を感じ始めた、というほうが正しいかもしれない。

写真とは本当に、それだけのものなのか?

ある日、写真展を巡っていたときのことだ。
壁に並んでいたのは、いずれも「問い」を感じさせる作品ばかりだった。
誰かのポートレートであっても、その視線の行方が意味深で、見る者の内側に何かを反響させてくる。
無人の空間の写真であっても、そこに「なぜこの場を選んだのか」「この空間は何を語っているのか」といった意図が感じられる。

それは、単なる風景の記録でもなく、出来事の切り取りでもなかった。
むしろ、見る者の「思考を引き出す装置」のように、そこに置かれていた。

その瞬間、私は気づいたのだ。
写真はいつの間にか、「答えを見せるもの」ではなく、「問いを投げかけるもの」に変わりつつある、と。

Traveler of Time  Naked Truth