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ここに載せている画像のほとんどはNikonで撮っている。 D3 D4 D810 D780 など。 カメラのクオリティーが上がればそれだけ、撮影は易しくなる。 高画質になりシャッタースピードは上がるので、ブレが無くなる。 基本、下べ手の画像はカラーで撮れてしまうので、モノクロにする際は編集ソフトにより”様々なモノクロ”が出来るのでとても面白い。 この場合は、「紫外線効果」を使いました・・布を透して肌が良く見える。
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——機能美から造形美への転位——
体操選手がヌードとなり、その鍛え上げられた肉体を提示する行為は、身体を競技成績のための「道具」から、純粋な造形対象として再定位する試みである。本論では、この表現がいかにしてスポーツの領域を越え、アートとして成立し得るのかを検討する。
体操競技における身体は、合理性と効率性を極限まで追求した結果として形成される。筋肉は誇示のためではなく、運動の必然として存在し、骨格と筋群は重力と回転に抗するために最適化されている。こうした身体は本来、機能性によってのみ評価される存在である。しかしヌードという形式を介在させた瞬間、その身体は競技文脈から切り離され、機能を超えた形態そのものとして立ち現れる。
ここで提示される肉体は、自然発生的な身体ではなく、長年の反復訓練によって彫刻化された存在である。その意味で体操選手のヌードは、古典彫刻が理想身体を追求した姿勢と通底する。たとえば、人体を比例と均衡の体系として捉えた古典美術において、肉体は精神性や理念を担う媒体であった。同様に、本表現においても、筋肉や関節は単なる解剖学的要素ではなく、意志・時間・鍛錬の堆積を可視化する造形言語として機能している。
また、この身体表現は、近代以降のアートが試みてきた「運動の可視化」とも接続する。静止したヌードでありながら、体操選手の身体には、跳躍、回転、着地といった動作の記憶が内包されている。これは、時間を一瞬に凝縮するという写真の特性とも相まって、単なる静止像ではなく、時間を孕んだ彫刻的イメージを生み出す。こうした態度は、運動を分解し再構成した未来派や、複数の視点を同時化したキュビスムの思考とも共鳴する。
さらに重要なのは、ヌードであるにもかかわらず、そこにエロティシズムが主目的として存在しない点である。鑑賞者の視線は、性的差異よりも、筋の走行、関節の角度、身体軸の緊張へと導かれる。ここでのヌードは「欲望の対象」ではなく、「構造を読むための表面」であり、身体は感情を喚起する存在というよりも、読むべき形態として提示される。この距離感こそが、本表現をアートの領域に引き上げている要因である。
体操選手のヌードは、完成された理想像を提示する一方で、人間が時間と反復を通じて自己の身体を作り替えてきた過程をも沈黙のうちに語る。そこには偶然性や自然美はほとんど介在しない。あるのは、意志によって形成された形態と、その結果としての均衡である。この点において本表現は、「自然としての身体」ではなく、「構築された身体」を主題とする現代的身体表現と位置づけられる。
結論として、体操選手がヌードとなり、その見事な肉体を提示する行為は、スポーツとアート、機能と造形、時間と静止という二項対立を横断する試みである。それは身体を消費するためのイメージではなく、身体そのものを思考対象へと変換する視覚装置である。この沈黙した身体は、語らずして、人間が自らの肉体をいかにして彫刻してきたかを雄弁に示している。
Tetsuro Higashi Photograph Body Painting