
戯曲:『花魁・紫太夫(むらさきだゆう)』
登場人物:
- 紫太夫(むらさきだゆう):吉原で最上位の花魁。美しさと知性、教養を兼ね備えた女性。
- 新之助(しんのすけ):若侍。江戸にて奉行所勤め。紫太夫のかつての幼馴染。
- お鹿(おしか):新造。紫太夫を慕う若き花魁見習い。
- 楼主(ろうしゅ):遊廓の経営者。打算的で現実的な人物。
一幕一場
場所:吉原遊廓「雲の間」紫太夫の居室。障子の向こうには夜桜が揺れ、篝火がぼんやりと影を落とす。
(障子の奥、紫太夫が一人で三味線を弾いている。紅の薄布が揺れ、香がたちのぼる。)
お鹿(奥から駆けてくる)
太夫様、太夫様!
さっき、武家風のお侍様が門前で名前も告げず、
「ただ、紫太夫にひと言、忘れたと伝えてくれ」と……。
紫太夫(微笑しつつも目を閉じて)
忘れたと、伝えてくれ……
忘れた者が、わざわざ名を隠して訪れるかしら。
(立ち上がり、鏡台に向かってゆっくりと髪を整える)
紫太夫
花の命は短くて
咲いては散ると、昔から。
けれど、私は咲ききって見せましょう。
この吉原の空の下、誰よりも濃く、香り高く。
お鹿
太夫様は、まるで桜よりも艶やかで……
私、いつか、あのようになれるでしょうか。
紫太夫(お鹿を見つめ、やさしく微笑む)
お鹿……
艶やかさとは、紅(べに)や衣の厚さではないのよ。
心に灯す、覚悟の炎。
(そのとき障子が開き、新之助が立っている。袴姿、顔はどこか陰を帯びている。)
新之助
……紫。
紫太夫(声を震わせず、ただ優雅に)
まぁ。
お忘れになったのではなく、思い出しに来られたのね。
新之助
もう、ここにあなたを置いておきたくはない。
私は今や奉行所勤め、出世の道も見えた。
名を捨ててでも、連れ出す覚悟で来た。
紫太夫(ゆっくりと立ち、手を袖に包み)
私は、吉原で咲くことを選びました。
最上位の太夫は、咲くだけでなく、
人の夢も欲も、すべて包んで魅せるもの。
新之助
だが、それは――!
紫太夫(やわらかく、しかし凛として)
私がこの座にあるのは、己の誇りゆえ。
女として、売られた身であれ、
私はこの場所で、どの侍より高く立つ。

紫太夫(新之助に歩み寄り)
あなたの心は、確かに嬉しい。
けれど、それを受け取れば、私はただの女に戻る。
それではこの紫の名が泣きますわ。
新之助(目を伏せる)
……では、私が泣くしかないのか。
紫太夫(手を取り、静かに微笑む)
そうではありません。
あなたは、私の花の最期を覚えていてください。
誰よりも高く、華やかに咲いた花が、
風に舞うときの静けさを。
(ふたり、しばし見つめ合い、やがて新之助はゆっくりと立ち去る)
お鹿(小声で)
……太夫様。
紫太夫(口元に紅を引きながら)
さあ、お鹿。今宵も客が来るわ。
泣くのは暇人のすること。
花魁とは、いついかなる時も、
見られてこそ華。
(障子の外に三味線の音が響き、夜桜が風にそよぐ)
