亡き子を想う心、幾たび涙にくれぬるを知らず
秋風が肌寒く感じられる頃になると、決まって胸の奥がきしむように痛む。もう何年も前のことになるのに、季節がめぐるたび、心はあのときのまま立ち止まったままだ。亡き子を想う心とは、こうも時を越えて揺らぎ続けるものなのかと、我ながら驚く。人は忘れることによって癒されていくというが、親が子を失ったとき、その「忘れる」という作用が不思議と働かない。どんなに時が経っても、あの小さな笑顔、声、手のぬくもりがありありと蘇り、涙が知らぬ間に頬を伝っている。
子どもを失うという経験は、人生における最も過酷な試練のひとつだろう。順番を違えるという不条理、命の尊さを痛感する瞬間、そして残された日々の重さ。それらすべてが、私の日常の中にひそやかに、けれど確かに存在している。
思い出すのは、ほんのささいなことばかりだ。朝の光の中で「おはよう」と笑った顔。公園で転んで泣きながらも、また立ち上がって走り出した後ろ姿。食卓で好き嫌いを言いながらも、最後にはきちんと完食した誇らしげな顔。どれも、何気ない日常の一コマに過ぎないはずなのに、今となってはどれほど貴重で、どれほど愛おしいものだったのかを、ひしひしと感じる。
ときには、夢の中にあの子が現れることもある。夢の中では、時間も現実も関係なく、そこにただ「在る」ことができる。手を握り、声をかけ、抱きしめることができる。しかし目が覚めた瞬間、その温もりが幻だったと気づくのが何より辛い。再び現実の孤独に引き戻されるあの瞬間、心が千々に乱れ、涙が堰を切るようにあふれ出す。
誰かに「もう前を向いて生きなければ」と言われることがある。善意からの言葉であることは理解している。だが、親にとって子どもとは未来そのものだった。その未来を失った者にとって、「前を向く」とはどういうことなのか。その方向には何があるのか。時に、それが見えなくなる。
だが同時に、あの子が遺してくれたものも確かにある。生きる意味、命の重み、そして何よりも「今ここにいる」という奇跡への感謝。もしあの子が何の意味もなくこの世を去ったと考えるならば、それこそ耐え難い。だからこそ、あの子の存在が私の中で生き続けるように、私は今日も語る。思い出す。泣く。そして、時には笑う。
悲しみは癒えない。だが、悲しみと共に生きることはできる。まるで雨の中を歩くように、濡れることを恐れずに、少しずつ歩みを進める。それが私の選んだ生き方だ。亡き子を忘れることなく、けれどその死に囚われすぎずに。
月命日には、必ず花を供え、小さな好きだったお菓子をお供えする。短い手紙を書くこともある。内容は日常の報告から、ふとした心の揺れまでさまざまだが、その行為が私を支えている。誰に向けるでもない思いを文字にすることで、私はあの子と再びつながれるような気がする。
一度だけ、「あなたに会えてよかった」と夢の中であの子が言ったことがある。その言葉を信じていいのか、夢という不確かなものに寄りかかっていいのかと、目覚めた後もずっと考えていた。しかし、もしそれが私の心が紡いだ言葉だとしても、それは私にとって真実だと思う。私もまた、「あなたに会えてよかった」と心から言えるから。
時の流れは、何もかもを押し流すようでいて、本当に大切なものは流さない。それはきっと「想い」なのだろう。亡き子への想いは、私の中に静かに、しかし確かに根を下ろし、花を咲かせることはなくとも、命の灯として燃え続けている。
秋の空を見上げると、ふとあの子の声が風に乗って聞こえる気がする。「おかあさん、だいじょうぶ?」と。その問いに、私は静かに答える。「だいじょうぶよ。あなたがいてくれるから」。その言葉を胸に、今日も私は歩き出す。
涙にくれぬる日々は、これからも幾たび訪れるだろう。だが、それでも私は知っている。亡き子を想う心が、私を生かしているのだということを。涙もまた、命の証なのだと。

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