What’s a photograph for me ?

写真って何なんだろう? という、疑問の前に、

この写真がどのようにして撮られたか?を説明します。

 

画面の周囲にはぼやけた大き目の点のようなものが写り込んでます。

被写体とカメラの間に模様を描いた薄いアクリル板を起き

そのアクリル板を透して撮影してます。

被写体とカメラの間のどのあたりにアクリル板を置くか?

によって、また、レンズを何ミリにするかによって、

写り込み方はかなり色々です。

 

どのように写り込むか?は観てのとおりですが、

欠点は、アクリルというかなり透明度の良くない、

ともすれば、画像が歪むこともあり得ます。

反射光が写り込まないような限定的な照明になります。

 

それと、これは編集過程における問題ですが、

かなり荒っぽい手法を用いてますから、

大きめの画像に出力した場合の画質に問題が生じそうです。

 

” What’s a photograph for me ? ”

だいたい、このような疑問を持つときはスランプなんだろうと思う。

写真を始めたのが、2012年くらいから・・

2014~2016年位までは夢中でやれたので調子が良く、

その後は、ずっとスランプが続いているように思う。

「作品にしなければならない・・」というプレッシャーなのか、

撮影自体を楽しめてない。

ネット上では、世界中に強者の写真家を多く見るが、

彼ら彼女らと競うつもりもなければ、参考にしようとも思わない。

(自己表現である限り、他者と比較しても意味がない。

それでも、作品の素晴らしさにある種の嫉妬を覚えることはよくある)

ただ、ひたすら、「自分に見えている写真」を撮りたいだけなのに、

それが実現しないし、形にならない。

 

” 自分が思い描く写真 ”  が実現できれば、必ず評価は得られると信じている。

試行錯誤を限りなく繰り返す・・

” 僕の描く世界 ” は、このまま” 迷宮入り” してしまうのだろうか。

 

 

というメッセージ(質問状)を頂いた

そのことについて、僕の図り知る範囲で(事情)を列挙してみる

戦後の70年を遡って、その歴史を考えてみる

絵画であれば、デッサンから始めて、

一人前の画家を名乗るにはそれなりの訓練を必要とする

(稚拙な作品は誰の眼にも簡単にわかる)

ところが、カメラを持てば誰でも写真家は名乗れる

シャッターを押せば、それらしい画像は誰にでも簡単に得られる

だから、「もしかして、自分は才能があるかもしれない」

という錯覚も起こりうる

この「誰にでも・・」という事情が写真の立ち位置を下げる要因になっている

ところが、現在では、この「誰にでも・・」という事情が

フォトグラファーの絶対数を増やし、

アート分野で「写真家として一流であること」が最も険しい道のりにもなりうる

同様なことは、誰にでもチャンスがあるサッカー選手、

音楽分野ではギタリストもしかり・・母数が多ければその道は険しい

情報化社会は進み、グローバルにその作品は比較され、評価される

半世紀前なら、ある地域(日本)で一流と言われても、

世界に出れば「ただの人」になってしまう

確かなことは、写真を撮るカメラだけはダントツにこの国が一番である

ただし、撮る技術、編集レベル、アート性においては

海外には、強者はごろごろしている

アジアカップに勝てても、ワールドカップではそうはいかないことに似ている

専門的研究分野に関しても、同様な危機感を唱える人が多くいる

官民一体となって成功した時代(1950~1980)感覚が抜けないでいる

組織第一主義に陥り、そこに胡坐をかいている輩がまだまだ多い

興味深い研究に民間がその費用を出せる状況にない

この国の生命線ともいる先端技術に後れをとることになる

写真の世界においても、○○協会などという組織(群れ)を成そうとする

”身内”で盛り上がっていれば、それで済んでしまう(食べていける)

そもそも、アートと言うのは「個の美意識の領域」にある

群れを成すこと自体が甚だ違和感を生じる

組織優先ともなれば、それを嫌う写真家は浮かび上がらない、飯が食えない

海外に出るか、ひっそりと写真家を続けていくことを強いられる

要は、有能な写真家が育たないという状況を続けているということ

( FBで繋がっているだけでも、この国でも優れた写真家を多く知っている。 グラビア写真が撮れないという理由なのか、撮る気もないのか、、、写真では飯は食えないのだろう)

これも僕の知る範疇でしかないが・・メーカー主体の展示会が多い

ハイアマチュアを名乗るお金持ちに高価なカメラを買わせるのがその目的

カメラの高性能さを示せる作品であることが優先され、

アート性などはどうでもよいように思う

写真とはこの程度のものか・・と、見下すアート関係者がいることは否めない

ここでも、写真の立ち位置を下げている

それと、写真の利便性にもその要因があるようだ

様々な報道分野、ドキュメンタリー、コンビニで見かけるグラビア写真など・・

絵画に比べれば、その用途が広いだけに、

相対的にその価値が”軽く”考えられがちなのは頷ける。

私は、EUでの展示会しか知らないが、

アート作品(分野)にはそれぞれの有する優位性がある

彫刻であれば立体であり、絵画であればその画肌の質感にある

このように考えるとき、

写真の優位性をプレゼンできない作品は展示に値しない。

Making the conscious the unconscious

Making the conscious the unconscious

無意識下にあるものを意識下に治めること

ドキッとしたり、ハッと思うことがあれば、そういうことなのかな・・と思う。

以前にこういうことを言っていた人がいた

「真似するんじゃなくて、盗めばいいんだよ・・」

アートの世界においては、とても的確で説得力がある

真似することはコピーすること、

盗むことは、自分の中で消化し、再出力すること

でも、新たな個性をもって、以前にあったものより美しく収めること

でないと、その行為自体に意味がない。

Belgium Trip

Belgium Trip

ベルギーへの旅というより、展示会のために滞在した6日間

この写真はアントワープ市内でのスナップ

滞在したギャラリーはアントワープから電車で20分の所に位置しているので

アントワープ市内の散歩はこの日の4時間だけ

アントワープが位置するベルギー北部(オランダとの国境に近い)では、

若い人たちは普通に英語が流暢、

普段はオランダ語( アントウェルペン方言 )だけど・・

帰りに道に迷い、地元の人に駅に戻るための道を尋ねようと思いましたが

地元の人と旅行者の区別がつかない、

あきらかに地元の人と思われる人はたぶん英語は伝わらない・・

それに、ちょっと危なさそう

なんとか、駅へはたどり着きましたが、電車を一本乗り過ごした

それで、50分帰りが遅くなった

パリに3日間滞在した後に、ここにやって来たこともあり

その間、ラテンからゲルマンに移動したことになる

北へ400キロほどだろうか、ブリュッセル以北はゲルマン、

ベルギー国内は、南がラテン(フランス語)、北がゲルマン語族(オランダ語)

に二分されていることから、国内事情は複雑とのこと

ラテンからゲルマンへ・・何が変わるかというと

髪色が黒、茶色から、金髪、白髪に代わること

背丈はフランスでは僕と同じくらいで、男子は180cmくらい

ゲルマンになると190cm近くなる

何事もそうなのだろうが、平均で言うことに意味はない

ゲルマンでは、200cm近い男子が普通に歩いているということ

僕が出会った人たちについて話すと・・

フランスでは、日本人は英語しか話せないことを彼らは知っているので

普通に英語で対応してくれる

アントワープでも同じ

滞在中に会食する機会があって

日本人の僕と展示会へ参加したフランス人2人とベルギーの

ギャラリーオーナーでもあるベルギー人、そして、ポーランド人女性

当然のように、フランス語と英語が行き交う

正直なところ、英語は簡単なことしか聞き取れないし喋れない

(契約書などに書かれている英語は分かるし、大切なことは英語で筆記している

それなのに、なぜ聴き取れないのか?

そんな僕を見て、EUの人たちは不思議そうにしている)

フランス語は全くダメ、普段聞きなれない音が多すぎて手に負えない

同じようなことは、北京にいた時もあった、ない音がたくさん聴こえてくる

人の名前を呼ぶときぐらいは正確に発音したい、でも、違う・・と言われる

頑張って、真似てみるがそれでも違う・・と、自分の中にない音は出せない

この国、日本は家族社会なのだろうか、

僕には、世間との付き合い方が分からないことが多い

物心ついたころから、自分は異邦人のように感じてきた

ところが、EUにいるときは、外国人であることにかわりはないのだろうが、

多民族国家であることから、特別視されることもない

個人主義が徹底されているから、他人へ干渉しない・・と言えばその通りだが、

僕が出会った限りでは、親切で温かい人ばかり・・

そして、二度の世界大戦を経ていることからだろうか、

”平和への在り方”が真摯に受け止められている

中立を宣言してしたにもかかわらず、侵攻された歴史もある。

Maturity

Maturity consists in having rediscovered the seriousness one had as a child at play.             … Friedrich Nietzsche

成熟するということは、悟ということじゃなく、

いつでも初心に帰えれる・・と言うことですね。