
(写真:パリ北駅の向かいのカフェ 2019年)
「「共学なのに9割以上が女子生徒」茨城の公立校で異変…男子生徒数が急増、人気校に「先生、野球部つくっちゃおうよ!」創部3年で“部員0→21人”のウラ側
N」…この記事に寄せて。
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この記事を読んで、私はふと「写真の現場」によく似た気配を感じた。
完成されたものではなく、まだ形になっていないものに人が集まる――その不思議な引力である。
かつて私は、整いすぎた美にどこか息苦しさを覚えたことがある。光も構図も完璧で、技術的には非の打ちどころがない。それでも、そこに「入り込む余地」がない写真は、どこか遠い。
一方で、少しバランスが崩れている写真、まだ輪郭の曖昧な瞬間には、不思議と人の気配が宿る。見る側が、その隙間に入り込めるからだ。
この水戸三の野球部は、まさにそういう存在だと思う。
「選手0人、マネージャー3人から始まった」
この一文は、もはや物語の導入として出来すぎている。だが重要なのは、ドラマ性ではない。むしろその裏にある「余白」である。
グラウンドがない。実績がない。勝ってもいない。
普通なら「ないもの」を数えるところだが、ここでは逆に、「まだ決まっていないもの」が価値になっている。
つまり、完成されていないからこそ、自分が関われる余地がある。
写真でいえば、それは「被写体がまだこちらを知らない瞬間」に似ている。
構えられた顔ではなく、何者でもない顔。そこにこそ、こちらの視線が入り込む。
もう一つ、強く印象に残ったのは「男子がいるという心理的安全」という言葉だ。
これは単なる男女比の話ではない。
「場に多様性が生まれることで、人が安心する」という、ごく本質的な話だと思う。
私はこれまで、さまざまなモデルを撮ってきた。プロもいれば、初めてカメラの前に立つ人もいる。
そのとき、最も大切なのは技術ではなく、「ここにいていい」と感じられる空気だ。
水戸三の野球部が生み出しているのは、まさにその空気ではないか。
野球が上手いかどうかではない。
勝てるかどうかでもない。
ここにいていい、関わっていい、未完成のままでいていい――
その許可が、場の価値になっている。
そして、監督・柴田の変化。
かつては「徹底力」によって勝ってきた。だがそれは、自分が主語ではなかった。「勝たせてもらっていた」と彼は言う。
この言葉には、少し痛みがある。だが同時に、表現者としての出発点でもある。
写真でも同じだ。
最初は、誰かの構図や光の真似をする。うまくいくこともある。評価もされる。
だが、どこかで気づく。「これは自分の写真ではない」と。
そこから先は、不安定になる。正解がなくなる。
しかし、その不安定さの中でしか、自分の視点は立ち上がらない。
柴田は、勝利至上主義を手放した。
代わりに選んだのが、「余白」と「自走」。
これは、指導ではなく“関係性”のデザインだと思う。
さらに興味深いのは、彼が「発信」を始めていることだ。
noteや音声配信を通じて、自分の考えを言葉にする。
これは単なる広報ではない。
むしろ、「自分は何者か」を問い続ける行為に近い。
写真家も同じで、撮ることは同時に「自分の立ち位置」を探ることでもある。
誰を撮るのか、なぜ撮るのか。
それを言語化できるかどうかで、作品の深度は変わる。
この野球部は、まだ勝っていない。
だが、すでに「何かを変えている」。
学校の空気。
生徒の選択基準。
そして、おそらくは「高校野球とは何か」という問いそのものを。
私は思う。
これから価値を持つのは、完成された強さではなく、
「未完成のまま開かれている場」ではないか。
写真も、教育も、そしてスポーツも。
人が集まる理由は、もはや結果ではない。
そこに、自分の居場所を見つけられるかどうかだ。
勝っていない。
それでも人が集まる。
その光景は、どこか静かで、しかし確かな強度を持っている。
まるで、まだ現像されていないネガのように。
これからどんな像が浮かび上がるのか――
それは、関わる人間すべてに委ねられているのだと思う。