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“父の祈り”
小さな酒場の隅、錆びついた木製のテーブルに置かれた一杯のウイスキーが私を待っていた。その琥珀色の液体は、陽の落ちる海辺のように穏やかで、それでいて胸をざらつかせる何かを秘めていた。ガラス越しに灯る街の明かりが揺れるたび、心の奥に父の姿が浮かぶ。
「亡き父さんも、きっと天からお前の幸せを願っているんだよ。」
母の声が蘇るたび、ウイスキーの味が変わる。甘さと苦味が混じり合い、父の記憶が滲むように溢れ出す。なぜ、あの時その言葉を理解できなかったのだろう。母の声は静かだったが、その裏には鋭い真実が隠れていた。
父は強い男だった。手にしたものは、釣り竿だろうが、木槌だろうが、必ず役に立てた。風が強い日も、海が荒れる日も、彼は船を出し、戻ると笑顔で家族の前に立った。その背中を見て育った私は、父が不可能を知らない人間だと信じて疑わなかった。
けれど、父が病に倒れた日、私は初めてその強さが有限だったことを知った。私の中で揺るぎないものだった彼の存在が、時とともに小さく、儚く、風に散る砂のように感じられた。それでも、父は病床で笑顔を絶やさなかった。
「お前は、自分の人生を大切にしろ。それだけで俺は十分だ。」そう言った父の言葉を、私は軽々しく聞き流してしまった。まだ若かったし、自分の痛みだけに囚われていたのだ。
酒場の窓の外、風が吹きつける夜の街が広がる。父がいた頃、この街にはもっと温かみがあったように思える。いや、実際には街が変わったのではなく、私の心が冷えたのだろう。
父の死後、何年も私は彼の言葉を忘れたふりをして生きてきた。幸せを願っている? そんなものは嘘だ。もし本当なら、なぜ父は私を残していったのか。そんな幼稚な怒りを、私は心の奥底に抱えていた。
だが、ある日、釣り場の古びた桟橋で、父と同じように夕陽を見つめる自分に気づいた。その時、初めて思い出した。父の言葉の意味を、彼の目の奥にあった優しさを。幸せというものは、自分でつかむものだと、彼が教えたかったのだ。
「なぜ、それが分からないんだい?」
父がもし天国から私に声をかけるとしたら、きっとこう言うだろう。そして、その声には怒りも失望もなく、ただ静かな祈りだけが込められているはずだ。