フォトエッセイ【かなしみ笑い 】– 中島みゆき 

【かなしみ笑い】– 中島みゆき・・・失われた愛の微笑み

中島みゆきの歌には、いつも「かなしみ」と「強さ」が共存している。特に「かなしみ笑い」という表現には、彼女の音楽に流れる深い人間理解と、傷ついた者だけが持つ優しさがにじみ出ている。

「かなしみ笑い」とは、文字通り、悲しみの中で浮かべる笑み。心が砕けそうな時に、それでも誰かに心配をかけまいとして見せる、あの微笑みのことだ。中島みゆきの歌詞に登場する人物たちは、しばしばそんな笑顔を浮かべる。愛を失った後でも、泣くことすらできずに、ただ静かに笑う。まるで、その笑みの奥に、もう戻らない愛を大切に隠しているかのように。

「失われた愛の微笑み」という言葉は、時に残酷なほど美しい。愛があった証として、その微笑みは存在する。別れが訪れても、愛し合った日々は消えない。その証拠として、人は微笑む。皮肉にも、それが“悲しみ笑い”となるのだ。笑いながら、心の中では「もう一度あの手を握りたかった」と叫んでいる。

中島みゆきの「わかれうた」や「誕生」などに登場する女性像は、まさにこの「かなしみ笑い」を体現している。彼女たちは決して取り乱さない。涙を見せず、どこか遠くを見つめながら笑う。そこに込められているのは、「もう戻れない」と知りながらも、愛したことを後悔していない、そんな潔さだ。

このような感情は、単に「強がり」では片づけられない。むしろ、自分自身と向き合い、悲しみと共存することを受け入れた者だけが持てる境地だ。中島みゆきは、その境地に立つすべての人に寄り添い、歌い続けてきた。だからこそ、彼女の歌には慰めがあり、聴く者の孤独を静かに溶かしていく力がある。

「かなしみ笑い」は、愛を知った者だけが持てる表情である。そしてその笑みは、たとえ失われた愛であっても、それが確かに存在したことの証。中島みゆきの世界は、それを否定せず、抱きしめてくれる。

フォトエッセイ「風のない午後、レンズ越しの君へ」

フォトエッセイ 『門』 抒情詩による再構成

フォトエッセイ「白い雪に覆われた道を歩く」

フォトエッセイ「花と身体のあいだ」

フォトエッセイ「人の哀れとは 枕草子 – 清少納言 」

フォトエッセイ【かなしみ笑い 】– 中島みゆき 

フォトエッセイ「Pat Metheny – And I Love Her」

フォトエッセイ「こころ – 夏目漱石」

フォトエッセイ「静かな愛と秋の調べ 森鴎外『雁』」

フォトエッセイ「雨の夕暮れ野分 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「亡き子を想う心、幾たび涙にくれぬるを知らず」

フォトエッセイ「夢十夜 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「掌の小説 – 川端康成」

フォトエッセイ「人の哀れとは 枕草子 – 清少納言 」

人の哀れとは、うつろいの中にあるもの

四季はめぐる。春が来て、夏が過ぎ、秋が深まり、冬が訪れる。そしてまた春が来る。人の一生もまた、そのように巡るものかもしれない。

清少納言は、宮中の華やかな日々の中に、人の機微を見て取った。ちょっとした言葉のやり取り、夜のしじま、季節の気配。そのすべてが、彼女にとっての「哀れ」であり、美であった。

今を生きる私たちもまた、忙しさの中でふと立ち止まり、季節のうつろいに耳を傾けたい。そして、そのうつろいの中に、「哀れ」を見い出す心を、忘れずにいたい。

「をかし」とはしゃぐ心もよし。「あはれ」としみじみ感じる心もまた、人生を豊かにする。

人の哀れは、常に変わらぬもの。季節と共に心を移し、思い出を重ねながら、今日という一日を生きていく。その繰り返しの中にこそ、人の美しさがあるのだと、私は信じている。

フォトエッセイ「風のない午後、レンズ越しの君へ」

フォトエッセイ 『門』 抒情詩による再構成

フォトエッセイ「白い雪に覆われた道を歩く」

フォトエッセイ「花と身体のあいだ」

フォトエッセイ「人の哀れとは 枕草子 – 清少納言 」

フォトエッセイ【かなしみ笑い 】– 中島みゆき 

フォトエッセイ「Pat Metheny – And I Love Her」

フォトエッセイ「こころ – 夏目漱石」

フォトエッセイ「静かな愛と秋の調べ 森鴎外『雁』」

フォトエッセイ「雨の夕暮れ野分 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「亡き子を想う心、幾たび涙にくれぬるを知らず」

フォトエッセイ「夢十夜 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「掌の小説 – 川端康成」

フォトエッセイ「花と身体のあいだ」

花と身体のあいだ — 写真家としての感想

裸というのは、ただ服を脱ぐという意味ではない。
皮膚が空気に触れるように、感情もまた露出する。
そこに花を添えるという行為は、ある種の緩衝材であり、象徴でもある。

私が「花とヌード」を撮るとき、それは肉体を見せるためではなく、内面を感じさせるための装置として構図を考える。花は、身体の一部を隠すためにあるのではなく、むしろ身体が持つ「語りたがらない物語」を代弁する存在になってほしいと思っている。

モデルの表情、肩の力の入り具合、指先の微かな震え──それらすべてに、花をそっと添える。
すると不思議なことに、身体はただの「裸」ではなくなる
それは”人間”の姿になる。
強さと弱さ、美しさと怖れ、自己肯定と不安が同時にそこに立ち上がる。

何よりも印象的なのは、モデルが花をまとった瞬間、表情が変わることだ。
羞恥心が消えるわけではない。だが、自分を否定しないまなざしが、その場に漂い始める。
「見られること」から「見せること」へ。
受動から能動へと、ほんの一瞬、立ち位置が変わる。
私はその瞬間を逃さずに捉えたい。

カメラを向けることは、ある意味で暴力的だ。
だが、花を通じてこちらの意図が「装飾」ではなく「共鳴」だと伝わるとき、ようやく写真は記録ではなく、対話になる

フォトエッセイ「風のない午後、レンズ越しの君へ」

フォトエッセイ 『門』 抒情詩による再構成

フォトエッセイ「白い雪に覆われた道を歩く」

フォトエッセイ「花と身体のあいだ」

フォトエッセイ「人の哀れとは 枕草子 – 清少納言 」

フォトエッセイ【かなしみ笑い 】– 中島みゆき 

フォトエッセイ「Pat Metheny – And I Love Her」

フォトエッセイ「こころ – 夏目漱石」

フォトエッセイ「静かな愛と秋の調べ 森鴎外『雁』」

フォトエッセイ「雨の夕暮れ野分 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「亡き子を想う心、幾たび涙にくれぬるを知らず」

フォトエッセイ「夢十夜 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「掌の小説 – 川端康成」

フォトエッセイ「白い雪に覆われた道を歩く」

白い雪に覆われた道を歩く

雪の降り始めた日の静けさほど、心に沁み入るものはない。

夜が明けきらぬうちから、空は灰色の雲を抱き、何かを語るようにして地上へと白い言葉を落としてくる。初めは気づかぬほど小さく、頼りなく舞い降りるそれらの結晶が、時間の重なりとともに確かな存在となり、やがて世界をまるごと包み込んでしまう。音を吸い込み、色を消し、過去を覆い隠して、ただ白だけが支配する空間が立ち現れる。

私はそんな朝、わざわざ遠回りをして、人気のない裏道を選び歩く。そこは人も車も通らぬ、古びた畦道で、夏には草が生い茂り、秋には落ち葉が舞い、冬にはこうして雪に埋もれる。まるでこの道だけが、時の外にあるかのような錯覚を覚える。足元を確かめるように、一歩一歩、雪を踏みしめていくたびに、過去の記憶がふいに胸の奥で目を覚ます。

白い道を歩いていると、ふと思い出すのだ。あの男の背中を。

有島武郎の『カインの末裔』に登場する、罪を背負いながらも、生きることにしがみついていたあの男。彼は、何を思いながら、雪に閉ざされた大地を耕していたのだろう。寒さに震える家族を背に、見通しも希望もない労働に身を沈め、それでも生き続けることを選んだ。誰に認められるわけでもなく、報われることのないその日々は、まるで神から見放された者の苦行のようであった。

彼の歩いた道もまた、雪に覆われていたのではないか。

雪はすべてを覆い隠す。傷も、血も、涙も。まっさらな白は、人間の罪さえも一時的に忘れさせる。それは慰めであると同時に、残酷でもある。なぜなら、雪の下には確かに傷跡があり、痕跡があり、踏み固められた道があるのだ。雪はそれを隠し、やがて春が来れば暴き出す。隠したつもりのものが、また陽のもとに晒される。だからこそ、白い雪の道を歩くたび、私は心の奥に沈めた記憶と向き合わされる。

子供のころ、祖父の家の近くにも、こうした雪の道があった。冬になると、誰も通らぬあぜ道をひとり歩くのが好きだった。静けさのなかで、自分の足音だけがはっきりと聞こえる。それはまるで、自分の存在を確かめるための儀式のようでもあった。幼い私は、その白の静寂に安らぎを覚えると同時に、説明のつかない不安も感じていた。まるで、白の底には何か得体の知れないものが潜んでいるかのような恐れ。今にして思えば、それは「孤独」という名の感情だったのかもしれない。

孤独は、誰の人生にもひそんでいる。それは社会的に成功していても、家族に恵まれていても、消えることはない。むしろ、それらの「満ち足りたもの」の裏側にこそ、深く静かに横たわっている。

雪の道を歩くとき、人はその孤独に向き合わざるを得ない。誰もいない、音もない、ただ白い道がどこまでも続いている。そこに足跡を刻むたび、自分がこの世界にたったひとりで在るという感覚が、鋭く胸を刺す。それでも私は、その道を歩きたいと思う。なぜなら、孤独と向き合うとき、人は最も誠実な自分に出会える気がするからだ。

『カインの末裔』の男もまた、きっと孤独であったはずだ。彼は人の道から外れ、罪を背負い、それでも生き続けた。その背中に、私は人間のどうしようもなさと、それでも消えぬ希望を感じる。人は罪を犯し、過ちを重ね、時に誰かを傷つける。けれど、そうした愚かさのなかにも、なお生きようとする意志がある。雪に覆われた地を耕すという、果てしなく報われぬ行為のなかに、人間の尊厳が宿っているように思える。

私たちは皆、雪に覆われた道を歩いている。誰にも見られず、誰にも知られず、ただ黙々と足跡を刻む。その道はときに厳しく、行き先も見えない。それでも進むしかない。なぜなら、足を止めれば、雪に呑まれてしまうからだ。

そして、ふと思うのだ。歩き続けたその先に、ほんのわずかでも、誰かが自分の足跡を見つけ、「ここを誰かが歩いた」と思ってくれるのなら。それだけで、人生は少しだけ報われるのではないかと。

雪はすべてを覆い、すべてを無にする。しかし、だからこそ、人が残すものは美しい。足跡も、声も、記憶も。白い雪のなかにそれらが刻まれるとき、世界は少しだけ温かさを取り戻す。

今日もまた、雪が降る。

私は静かにその道を歩く。過去を踏みしめながら・・・

フォトエッセイ「風のない午後、レンズ越しの君へ」

フォトエッセイ 『門』 抒情詩による再構成

フォトエッセイ「白い雪に覆われた道を歩く」

フォトエッセイ「花と身体のあいだ」

フォトエッセイ「人の哀れとは 枕草子 – 清少納言 」

フォトエッセイ【かなしみ笑い 】– 中島みゆき 

フォトエッセイ「Pat Metheny – And I Love Her」

フォトエッセイ「こころ – 夏目漱石」

フォトエッセイ「静かな愛と秋の調べ 森鴎外『雁』」

フォトエッセイ「雨の夕暮れ野分 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「亡き子を想う心、幾たび涙にくれぬるを知らず」

フォトエッセイ「夢十夜 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「掌の小説 – 川端康成」

フォトエッセイ 『門』 抒情詩による再構成

『門』 抒情詩による再構成

(夏目漱石『門』より着想)

暮れゆく日々の光の中に
小さな家と ふたりの影
宗助とお米は 静かに生きる
罪を背負い 声を殺して

過去は声なく 門の奥に
開かぬ戸口に 風が鳴る
かつて愛した 友の妻
奪ったのは 愛か、それとも――

平穏のなかに 潜む波紋
仏壇の前で 祈るように
宗助の眼は 遠くを見る
贖いとは何かと 問いながら

学僧に会いに 山の寺
悟りを求め 門をくぐる
だが静寂は 何も告げず
ただ木々が風に うなずくだけ

人は皆 門の前に立つ
入るべきか 戻るべきか
宗助はまた 日常へ帰る
お米の笑みが 帰る場所

罪は消えずとも 時は流れ
ふたりの影は 寄り添って
門の向こうに 何があろうと
今を生きる ただそれだけ

フォトエッセイ「風のない午後、レンズ越しの君へ」

フォトエッセイ 『門』 抒情詩による再構成

フォトエッセイ「白い雪に覆われた道を歩く」

フォトエッセイ「花と身体のあいだ」

フォトエッセイ「人の哀れとは 枕草子 – 清少納言 」

フォトエッセイ【かなしみ笑い 】– 中島みゆき 

フォトエッセイ「Pat Metheny – And I Love Her」

フォトエッセイ「こころ – 夏目漱石」

フォトエッセイ「静かな愛と秋の調べ 森鴎外『雁』」

フォトエッセイ「雨の夕暮れ野分 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「亡き子を想う心、幾たび涙にくれぬるを知らず」

フォトエッセイ「夢十夜 – 夏目漱石」

フォトエッセイ「掌の小説 – 川端康成」

鏡とヌードという古くて新しいモチーフ

鏡を使ったヌード表現は、西洋美術では古くから繰り返されてきたモチーフです。たとえば、トゥールーズ=ロートレックの「鏡の前のヌード」などでは、裸体と鏡像、自意識と視線といったテーマがすでに意識されていました。wga.hu また、女性画家スザンヌ・ヴァラドンによる《鏡の前のヌード》(1909年)も、主体としての女性の視線や身体と鏡を媒介とする重層性を提示する作品です。artchive.com こうした古典的背景を引き継ぎつつ、現代写真家たちは鏡をただ反射装置とするのではなく、「視覚のメタ的構造」を露わにする装置として用いてきています。

鏡には、被写体の存在を二重化し、目に見えるもの/見えないもの、正視/回避、主体/客体という境界を撹乱する力があります。女性ヌードを鏡とともに撮る、という行為には、その撹乱性と、視線の転換・不確定性を活かす潜在性があるのです。

以降、まず鏡を媒介とした視線と関係性の構造を論じ、次に現代フランスの作家たち、あるいは彼らと接近する概念的潮流を参照しながら、鏡を使った女性ヌード撮影における美と倫理を考察します。

鏡・視線・自己/他者の重奏

鏡を用いるということは、「実在する身体」と「鏡像」という反射体のズレを取り込むことを意味します。鏡像は、必ず実物とずれを孕む。鏡の角度、歪み、光線、鏡面の質、カメラ・レンズの条件…これらすべてが像を変奏させます。つまり鏡を使った撮影は、単に“鏡の前でヌードを撮る”のではなく、「鏡+身体+カメラ」それぞれの干渉関係が画面を立ち上げることになるのです。

この意味で、鏡を構図に組み込む行為は、視覚のメタ的構造を顕在化する効果を持ちます。被写体と撮影者、視者の間における視線の交錯やズレ、あるいは鏡像という“反転他者”の存在感によって、単なる裸体の展示とは異なる複雑な関係性が生まれます。

具体的には、以下のような関係性が想定されます。

フォトエッセイ「風のない午後、レンズ越しの君へ」

photo : Shinji Ono

風のない午後、レンズ越しの君へ

風のない午後だった。雲ひとつない空は、どこか現実離れしたほどに静まり返り、遠くの犬の鳴き声さえ、時間の狭間から滲んで聞こえてきた。

僕はいつものように、ファインダーをのぞいていた。レンズの向こうには、彼女――若く、しなやかで、そして今この瞬間しか生きていないような、そんな光を身に纏った彼女が立っていた。

歳の差は歴然だった。僕はもう初老という響きがしっくりくる年齢に差しかかっていた。若い頃は、この瞬間が遠い未来のように思えていたが、気がつけば、髪には白いものが混じり、無理のきかない身体とともに、日々を少しずつ諦めながら過ごすようになっていた。

それでも、いや、だからこそなのかもしれない。彼女を撮るとき、僕の中で時間が少しだけ巻き戻る。正確には、巻き戻るのではなく、「時間の流れから一時的に解放される」と言った方が近い。

それは救いだった。

だが同時に、深く胸を締めつける痛みでもあった。

彼女との出会いは、偶然だった。友人の紹介でスタジオにやってきた彼女は、プロのモデルというわけではなかった。写真を撮られることに慣れていないどころか、どこか所在なさげにシャッターの音に戸惑っていた。

だが、僕はすぐに気づいた。彼女の持つ、言葉では言い表せない”何か”に。

それは美しさとも違う。表現力や演技力とも違う。もっと原始的な、「存在の光」とでも呼ぶべきもの。若さの放つ残酷で鮮烈な輝き。生命の只中にいる者だけが、無意識に纏っている、あの煌めき。

ファインダーを通して彼女を見つめるたび、僕の中で何かが静かに崩れていくのが分かった。これは、写真家としての衝動か。それとも、ひとりの男としての愚かさか。

その違いが、もう判然としなくなっていた。

撮影が終わると、彼女はいつも笑顔でありがとうと言って帰っていく。その背中を見送るたび、僕の中に静かに積もっていくものがあった。

それは「想い」と呼ぶにはあまりに脆く、けれど「欲望」とは言い切れないほどに純粋で、どこにもぶつけようのない感情だった。

未来がないことは、初めから分かっていた。

彼女には彼女の時間がある。彼女はこれから恋をして、愛され、傷つき、成長していく。その長い時間の中に、僕の居場所はきっとない。せいぜい記憶の片隅に、ぼんやりとした影のように残るくらいだろう。

だが、それでもいい。ほんの一瞬でも、彼女の「今」に触れることができた。その奇跡だけで、僕の心はどこか報われていた。

だから、僕はシャッターを切り続けた。

写真には、未来は写らない。過去も写らない。

ただ、今この瞬間しか、そこには刻まれない。

そしてその「今」が、僕にとっては何よりも貴重なものだった。

彼女を撮るとき、僕は極力言葉を交わさないようにしている。いや、交わせないのだ。言葉にしてしまえば、この感情は壊れてしまう気がするから。

何かを求めているわけじゃない。ただ、カメラという距離を隔てながら、その向こう側にいる彼女の存在を、焼き付けておきたかった。

この世界に、確かに彼女がいたということを。
そして、彼女を見つめた自分という存在が、たしかにここにいたということを。

記憶は曖昧になる。やがて僕が死ねば、すべては消えていく。
だが、写真だけは残る。

写真だけが、その一瞬の交差を、時を超えて留めてくれる。

それがどれほど儚く、無力な行為だとしても、僕にはそれしかできなかった。

ある日、彼女がふとこんなことを言った。

「この写真、どこか寂しそうですね。」

僕は答えなかった。

本当は、寂しいのは写真ではなく、僕の心だった。
けれど、それを彼女に伝える理由も義務もない。

むしろ、彼女にそれを背負わせることこそが、最も避けるべきことだった。

だから僕はただ笑って、シャッターを切った。

その一枚には、確かに彼女の言うとおりの「寂しさ」が宿っていた。
だがそれは、彼女が感じた「寂しさ」ではない。
それは、写真家としての僕の、そして男としての僕の、ひとつの終わりのような感情だった。

人は誰しも、時間の流れに逆らえない。若さは過ぎ去り、身体は衰え、やがて記憶すら薄れていく。

だが、写真はそこにとどまってくれる。彼女の笑顔も、沈黙も、微かな頬の赤みも。

そして僕の、言葉にできない愛しさも。

未来を共にできないからこそ、僕は今を必死に焼きつける。
今、この瞬間だけは、確かに僕たちは同じ場所に立っている。
その奇跡を、何度も、何度も。

風のない午後の、静かな光の中で。
レンズ越しの君を、今日も僕は見つめている。

フォトエッセイ「風のない午後、レンズ越しの君へ」

photo : Shinji Ono

風のない午後、レンズ越しの君へ

風のない午後だった。雲ひとつない空は、どこか現実離れしたほどに静まり返り、遠くの犬の鳴き声さえ、時間の狭間から滲んで聞こえてきた。

僕はいつものように、ファインダーをのぞいていた。レンズの向こうには、彼女――若く、しなやかで、そして今この瞬間しか生きていないような、そんな光を身に纏った彼女が立っていた。

歳の差は歴然だった。僕はもう初老という響きがしっくりくる年齢に差しかかっていた。若い頃は、この瞬間が遠い未来のように思えていたが、気がつけば、髪には白いものが混じり、無理のきかない身体とともに、日々を少しずつ諦めながら過ごすようになっていた。

それでも、いや、だからこそなのかもしれない。彼女を撮るとき、僕の中で時間が少しだけ巻き戻る。正確には、巻き戻るのではなく、「時間の流れから一時的に解放される」と言った方が近い。

それは救いだった。

だが同時に、深く胸を締めつける痛みでもあった。

彼女との出会いは、偶然だった。友人の紹介でスタジオにやってきた彼女は、プロのモデルというわけではなかった。写真を撮られることに慣れていないどころか、どこか所在なさげにシャッターの音に戸惑っていた。

だが、僕はすぐに気づいた。彼女の持つ、言葉では言い表せない”何か”に。

それは美しさとも違う。表現力や演技力とも違う。もっと原始的な、「存在の光」とでも呼ぶべきもの。若さの放つ残酷で鮮烈な輝き。生命の只中にいる者だけが、無意識に纏っている、あの煌めき。

ファインダーを通して彼女を見つめるたび、僕の中で何かが静かに崩れていくのが分かった。これは、写真家としての衝動か。それとも、ひとりの男としての愚かさか。

その違いが、もう判然としなくなっていた。

撮影が終わると、彼女はいつも笑顔でありがとうと言って帰っていく。その背中を見送るたび、僕の中に静かに積もっていくものがあった。

それは「想い」と呼ぶにはあまりに脆く、けれど「欲望」とは言い切れないほどに純粋で、どこにもぶつけようのない感情だった。

未来がないことは、初めから分かっていた。

彼女には彼女の時間がある。彼女はこれから恋をして、愛され、傷つき、成長していく。その長い時間の中に、僕の居場所はきっとない。せいぜい記憶の片隅に、ぼんやりとした影のように残るくらいだろう。

だが、それでもいい。ほんの一瞬でも、彼女の「今」に触れることができた。その奇跡だけで、僕の心はどこか報われていた。

だから、僕はシャッターを切り続けた。

写真には、未来は写らない。過去も写らない。

ただ、今この瞬間しか、そこには刻まれない。

そしてその「今」が、僕にとっては何よりも貴重なものだった。

彼女を撮るとき、僕は極力言葉を交わさないようにしている。いや、交わせないのだ。言葉にしてしまえば、この感情は壊れてしまう気がするから。

何かを求めているわけじゃない。ただ、カメラという距離を隔てながら、その向こう側にいる彼女の存在を、焼き付けておきたかった。

この世界に、確かに彼女がいたということを。
そして、彼女を見つめた自分という存在が、たしかにここにいたということを。

記憶は曖昧になる。やがて僕が死ねば、すべては消えていく。
だが、写真だけは残る。

写真だけが、その一瞬の交差を、時を超えて留めてくれる。

それがどれほど儚く、無力な行為だとしても、僕にはそれしかできなかった。

ある日、彼女がふとこんなことを言った。

「この写真、どこか寂しそうですね。」

僕は答えなかった。

本当は、寂しいのは写真ではなく、僕の心だった。
けれど、それを彼女に伝える理由も義務もない。

むしろ、彼女にそれを背負わせることこそが、最も避けるべきことだった。

だから僕はただ笑って、シャッターを切った。

その一枚には、確かに彼女の言うとおりの「寂しさ」が宿っていた。
だがそれは、彼女が感じた「寂しさ」ではない。
それは、写真家としての僕の、そして男としての僕の、ひとつの終わりのような感情だった。

人は誰しも、時間の流れに逆らえない。若さは過ぎ去り、身体は衰え、やがて記憶すら薄れていく。

だが、写真はそこにとどまってくれる。彼女の笑顔も、沈黙も、微かな頬の赤みも。

そして僕の、言葉にできない愛しさも。

未来を共にできないからこそ、僕は今を必死に焼きつける。
今、この瞬間だけは、確かに僕たちは同じ場所に立っている。
その奇跡を、何度も、何度も。

風のない午後の、静かな光の中で。
レンズ越しの君を、今日も僕は見つめている。

可視化された私小説

写真家:大野真司氏の作品群を紹介してます。

大野真司氏の作品には3カテゴリー合って、「旅行記」「人類愛」そして、「可視化された私小説」があると思ってます。 彼を知ったのは「旅行記」としての作品の印象深さであり、世界中の人たちを分け隔てなく記録しようとする「人類愛」を想わせる作品群。 そして、私にとってとっても興味深いのは「可視化された私小説」とも思われる、ここで載せてる作品群です。 

この私小説の一番共感できるところは、”痛み”なのですね。 目の前にいるモデルとは一瞬の時は共有できても、遠い未来は共有できない・・という”宿命”であったり、切なさなのです。 この”勝手な記述”は私の妄想であり、何の根拠もありません。 だからといって、次回お会いした時にその真偽のほどを確認するつもりもありません。

FBで載せられる画像にはいろいろと制限がありますから、作品の本当の素晴らしさは伝わりません。 そして、ここでは原画データを預かってますから、高画質で展示してます。

ここで載せてる一連の画像には、 写真家:大野真司氏の”愛”が感じ取れます。 この愛に関しては、踏み込んだコメントは控えましょう・・

この人の作品には、優しさがベースにあります、風景写真であっても。

可視化された私小説――写真という名の内面の物語

写真という表現は、しばしば「瞬間を切り取るもの」として語られます。しかし、この写真家の作品に触れたとき、私たちはその定型的な理解を超えた何か――時間を超越し、心の奥底に語りかける物語性を感じ取ることができます。それはまさに、「可視化された私小説」とも呼べるものであり、カメラという装置を通して、自身の感覚や記憶、心象風景までも写し出すことに成功しています。

この作品群には、「上手に撮ろう」という技術的な虚栄心は感じられません。むしろ、それらの写真は驚くほど素直で、誠実で、装飾を拒むような潔さをまとっています。技巧を競うのではなく、己の感覚を中心に据え、その内側から湧き出る衝動に忠実であろうとする姿勢が、作品全体に貫かれています。その姿勢こそが、写真を単なる記録ではなく「作品」へと昇華させているのです。

感覚の中に住まう写真

この写真家にとって、写真は「見せる」ためのものではなく、「感じる」ためのものなのでしょう。構図の整合性や光のバランスといった技術的な要素よりも、むしろその一瞬を通じて何を感じ、何を記録したかったのか――その内的な動機こそが、作品を動かす原動力となっています。まるで自分の心の奥を覗き込むような視線。見る者に媚びることなく、ただただ自分の感覚に忠実であろうとする態度。それが一枚一枚の写真に濃密に刻まれており、私たちはその静かな情熱に強く心を打たれるのです。

たとえば、雑踏の中にぽつんと立つモデルを捉えた一枚には、「孤独」や「静寂」といった感情が濃厚に漂っています。それは都市の喧騒を背景にしながらも、モデルの目線や姿勢、光の入り方などから、まるで観る者がその瞬間に立ち会っているかのような臨場感を呼び起こします。まさに、写真家自身の心象がそこに転写されているかのようです。

この画像は、右斜め前からフラッシュがたかれてますね、このモデルさんらしさを見事に捉えてます。

モデルに人格を与えるという挑戦

この写真家が特異である点は、モデルを単なる“被写体”として扱わないという姿勢にあります。一般的なファッションフォトやポートレートにおいては、モデルは視覚的な美しさを提示するための存在にとどまることが多く、その人間性までは写し出されないことがほとんどです。しかし、この写真家の作品では、モデル一人ひとりに「人格」が与えられているのです。

カメラの向こうに立つモデルは、ただポーズをとる存在ではなく、感情を持ち、過去を背負い、ある物語を生きる“ひとりの人間”として、写真の中に存在しています。それは、写真家がそのモデルの内面に深く分け入り、その人自身の本質に迫ろうとする試みの成果なのでしょう。視覚的な“美”を越えた、“生”のにおい――それがこの作品の大きな魅力の一つです。

このような写真を撮るためには、シャッターを切る前に、長い時間と深い信頼関係の構築が必要だったことでしょう。モデルとの対話、空間との対話、そして何より自分自身との対話を通じて、ようやく浮かび上がる一枚の写真。それは決して量産されるものではなく、一期一会の真摯な記録です。

「伝わる写真」と「作品のクオリティ」

写真において「伝えること」と「表現すること」は、しばしば相反するものとして語られます。表現を追求するあまり、受け手に伝わらない作品になることもあれば、伝えることを意識しすぎて表現が浅くなることもあります。しかし、この写真家はその両者を見事に融合させています。

観る者は、写真の中にある空気の揺らぎや、モデルのささやかな仕草、被写体を包む光のやわらかさに、言葉にならない感情を喚起されるのです。それは、「何を伝えたいのか」が理屈ではなく、感覚として直接伝わってくるからにほかなりません。ここには作為や演出を超えた、まさに“感応”とも呼ぶべき写真の力が宿っています。

こうした表現が生む“伝わる写真”は、他の写真家の作品とは一線を画しています。その差異は技術の優劣ではなく、むしろ“作品に対する誠実さ”と“被写体への眼差し”の違いにあります。この写真家の写真には、見る者の心にそっと寄り添い、語りかけてくるような温度があり、だからこそ作品としての「クオリティ」が際立っているのです。

モデルはこのように”毅然”としてないと・・

「このヌードは素晴らしい!」

こんなヌードが撮れたら?なぁ~と、ある種の憧れみたいなものがあって・・

一連の作品群には”自然体”であろうとする時空(への試み)をモデルとフォトグラファーが共有していることが分ります。

写真の未来への提言

この写真家の作品は、写真というメディアがどこまで個人の内面に迫りうるか、どこまで感情や人格を写し取れるのかという問いに対する、一つの鮮やかな答えを提示しているように思います。技術や流行を追うのではなく、あくまで自分自身の内なる感覚を羅針盤として、モデルと共に新しい写真の可能性を切り開いていく――その創作姿勢は、多くのフォトグラファーにとって大きな示唆を与えることでしょう。

このような作品に出会えたことは、観る者としての幸運であり、同時に写真表現の未来を見つめる上での確かな希望でもあります。内面を映し出す鏡としての写真、その可能性をあらためて実感させてくれる、素晴らしい作品群に心から敬意を表したいと思います。

写真家:大野真司氏の作品集

Ryuichi Kato Photography

「湘南のカカシ」 素晴らしい!

「セルフィー=自己愛が強い人のもの」という偏見、まだ根強く残っていますよね。特に、男性がセルフィーを撮ってSNSに投稿すると、「ナルシスト?」「自信過剰?」なんて声が聞こえてくることも。でも、ちょっと待ってください。それ、本当に悪いことでしょうか?

むしろ、男性がもっと自由にセルフィーを撮っていい社会の方が、ずっと素晴らしいと思いませんか?

1. 自己表現の自由が広がる

セルフィーは単なる「自撮り」ではなく、その人らしさを表現する手段です。ファッション、ヘアスタイル、笑顔、場所……その一枚には「今日の自分」が詰まっている。

女性が自由にセルフィーを楽しんでいるように、男性も遠慮せずにカメラを向けることで、自己表現の幅が広がります。誰もが自分の姿に誇りを持てるって、素敵なことじゃないでしょうか。

2. 「男らしさ」の呪縛を壊す

「男は感情を表に出すな」「外見を気にしすぎるな」なんて価値観、もう令和には不要です。

セルフィーを通して笑ったり、かわいくポーズを取ったり、時には真剣な表情を見せたりすることは、新しい男性像の提示でもあります。

もっと自由に、もっと感情豊かに。セルフィーは、その一歩を踏み出すきっかけになり得ます。

3. 自己肯定感が高まる

自分の写真を撮って、「今日の自分、いい感じかも」って思えたら、それだけで気分が上がります。
自分を認めてあげること、それこそがセルフィーの持つ最大の力

他人と比べるのではなく、「自分らしさ」を大切にするために、セルフィーはとても有効です。特に、普段あまり外見を意識しない男性にとって、自己肯定感を育むツールになるでしょう。

4. 想い出が残る

年齢を重ねると、意外と自分の写真って少ないもの。特に男性は、イベントや旅行で撮るのは風景や他人ばかりということも。

でも、ふと昔の写真を見返したとき、「あの頃の自分、若かったな」「こんな服着てたんだな」と、人生の記録が残っていることに気づきます。

セルフィーは、未来の自分へのプレゼント。自分史を彩る一枚になるかもしれません。

5. みんなに勇気を与える

あなたがセルフィーを投稿することで、「自分もやってみようかな」と思う人が現れるかもしれません。
その一枚が、誰かの背中を押すこともあるんです。

セルフィーは自己満足で終わらない。「自分を大切にしている姿」は、自然と他人を元気にする力を持っています。

最後に:自分を映すことに、もっと素直でいい

男性だって、堂々と自分を撮っていい。
セルフィーは恥ずかしいものでも、ナルシストなものでもありません。

それは**「自分らしくあること」への肯定**であり、今を生きている証

だからこそ、みんながもっと自由にセルフィーを撮る社会は、自己肯定感と多様性にあふれた、素晴らしい世界だと思いませんか?

加藤隆一氏の「作品集」なってます。 これらに2枚は、セルフィーではなく、知り合いの女性を撮っているとのこと・・ 

ここから下は、モデルとのコラボなのですが、加藤さんのリードが良いからでしょうか、モデルが見事に溶け込んでますね。 いずれも、セルフィーです。

この写真は飛び切りの一枚だと思います。 背景の歪みが美しく、人物と背景との異質感が作品を際立たせているように思います。

加藤隆一:Black & White

B&W World – Ryuichi Kato