写真におけるコラボレーションとエロティシズム

——即興性が生む身体表現の臨界点——

写真制作において「コラボレーション」とは、写真家とモデルが役割分担する関係ではなく、互いの身体性と感受性が同時進行で作用する生成的関係を指す。とりわけヌードや身体表現を含む撮影においては、この関係性そのものが作品の核心を成す。本論では、事前のコンセプトを排した即興的撮影を前提に、写真家とモデルの協働がいかにしてエロティシズムと接続するのかを考察する。

モデルの身体は、単に視覚的対象として存在するのではない。姿勢、緊張、呼吸、重心、そして視線の揺らぎに至るまで、全身が一つの表情として立ち現れる。写真家の役割は、その表情を「作らせる」ことではなく、すでに生成されつつある身体の状態を感知し、掬い取ることにある。ここにおいて撮影行為は、支配や演出ではなく、応答と選択の連続となる。

事前にコンセプトが共有されている撮影では、身体はある程度「意味づけられた方向」へと導かれる。それに対し、完全にフリーな状態で行われる即興的撮影では、モデル自身も次の動きを予測できない。身体は思考に先行し、反射や感覚によって変化し続ける。この不確定性の中で、写真家は瞬間ごとに判断を迫られる。シャッターを切るか、切らないか。その判断自体が、すでにコラボレーションの一部なのである。

この関係性は、エロティシズムと密接に関わる。ただし、ここで言うエロティシズムは、性的刺激や欲望の喚起を目的とするものではない。むしろそれは、身体が完全には制御されず、他者の視線に晒されることで生じる緊張と解放の往復運動として現れる。写真家の視線を意識しつつも、意識しきれない身体の反応——そのズレの中に、エロティシズムは宿る。

この点において、エロティシズムを「境界の侵犯」として捉えたジョルジュ・バタイユの思想は示唆的である。身体が完全に自己の所有物である状態から一歩踏み出し、他者の視線や時間に委ねられるとき、人は不安と同時に解放を経験する。即興的な撮影におけるヌード表現は、まさにこの境界領域に立ち上がる。

重要なのは、エロティシズムが「意図して作られるもの」ではないという点である。ポーズや状況を過度に演出した瞬間、それは記号化され、管理されたイメージへと後退する。即興的なコラボレーションにおいては、写真家もモデルも完全な主導権を持たない。その不均衡で不安定な関係性こそが、身体に予期せぬ表情を生じさせる。

したがって、撮影とは本質的にコラボレーションであり、同時にエロティックな行為であると言える。ただしそれは、欲望を消費する行為ではなく、他者の身体が自己の制御を離れて立ち現れる瞬間を受け止める行為である。写真家が捉えているのは裸そのものではなく、身体が一瞬だけ自己を超える、その徴候なのである。

結論として、打ち合わせを排し、即興に近い形で行われる撮影は、コラボレーションを最も純粋な形で露出させる。その場でしか生じ得ない身体の状態と、それに応答する写真家の判断が交差する地点に、アートとしての写真、そしてエロティシズムが同時に立ち上がる。そこでは、見る/見られる、撮る/撮られるという二項は溶解し、関係そのものが作品となるのである。

Tetsuro Higashi Photograph Nikon

股間のヘアーが写り込む画像について「身体表現における偶発性とエロティシズムの交差点」

——偶発性・視線・エロティシズムの臨界——

ヌード写真において股間のヘアーが写り込むことは、技術的には「排除可能な要素」でありながら、表現論的にはきわめて示唆的な問題を孕んでいる。本論では、それを失敗や不注意としてではなく、身体表現における偶発性とエロティシズムの交差点として位置づける。

まず、写真というメディアの特性として、撮影者の意図を超えた情報が不可避的に写り込む点が挙げられる。衣服の皺、皮膚の微細な影、体毛の存在といった要素は、被写体が「身体として存在している」ことの証拠であり、同時に、記号化や理想化への抵抗でもある。股間のヘアーは、その中でも特に強い現実性を帯びた要素であり、身体が単なる形態ではなく、生理的・時間的存在であることを露呈させる。

この写り込みが問題視されるのは、それが鑑賞者の視線を否応なく引き寄せるからである。多くのヌード表現は、構図や光によって視線を制御し、身体を彫刻的・抽象的に見せようとする。しかし、股間のヘアーはその制御を逸脱し、身体を再び「生きた存在」として前景化させる。ここにおいて、作品は造形的鑑賞から、身体の存在そのものを問う場へと移行する。

重要なのは、この要素が意図的であるか否かに関わらず、エロティシズムが発生しうる条件を備えている点である。ただし、このエロティシズムは、性的刺激としてのそれではなく、境界が揺らぐことで生じる感覚である。身体が完全に美術的対象として処理されず、「そこに在る」という事実が露わになるとき、鑑賞者は安心して眺める立場を失う。この不安定さこそが、エロティシズムの本質である。

この点において、エロティシズムを「連続性の破れ」として捉えたジョルジュ・バタイユの思想は示唆的である。均整の取れたヌードが秩序と連続性を象徴するのに対し、体毛の写り込みは、その秩序に亀裂を入れる。身体が完全に制御されたイメージではなく、他者の視線にさらされつつも、なお自律性を保つ存在であることを示すのである。

また、写真家とモデルのコラボレーションという観点から見れば、この写り込みは、両者の関係性の結果でもある。即興的な撮影においては、すべてを事前に管理することは不可能であり、身体は撮影の進行とともに変化し続ける。股間のヘアーが写り込む瞬間は、モデルの身体が演技やポーズを超え、無意識的な状態へと移行した徴候とも読み取れる。その瞬間を残すか否かは、写真家の倫理的・美学的判断に委ねられる。

結論として、股間のヘアーが写り込んだヌード画像は、単なる露出過多でも、意図的な挑発でもない。それは、身体が完全には記号化され得ないこと、そして写真が常に現実の過剰を抱え込むメディアであることを示す証左である。その写り込みを排除するか、受け入れるかは、作品が「整えられた美」を志向するのか、それとも「生の存在」を引き受けるのかという、明確な立場表明に他ならない。

したがって、この問題は技術論ではなく、身体をどこまでアートとして抽象化し、どこから現実として残すのかという根源的な問いとして扱われるべきである。そこにこそ、ヌード写真が常に孕む緊張と、アートとしての持続的な可能性が存在している。

このような作品が「作品撮り」としては、理想の形の一つなのだろう。 浮き上がる骨格と肉体の持つボリューム感が絶妙なのかもしれない。 

Tetsuro Higashi Photograph collaboration

モデルと私の間にはコンセンサスの共有が難しい

このモデルと私の間にはコンセンサスの共有が難しい。 彼女も私の撮り方を理解しようとしているし、私もいろいろと試行錯誤を続けている。 たぶん、向いてる方向が真逆なのかもしれない。 相撲で言えば、”喧嘩よっつ”とでもいうのだろうか、ぶつかり合った末にこのような画像が生まれる。 そうは言っても、結果が全てなのだろう・・彼女の作品は、EUのギャラリーからの展示オファーもあり、雑誌などでの画像使用許可を求めてくるアート関係者は多い。 

Tetsuro Higashi Photograph Nude Body

自己を慰撫する仕草を含むヌード表現の精神性「自己が自己に触れることによって生じる裂け目」

自己を慰撫する仕草を含むヌード表現の精神性

——自我の回復としての身体行為——

自信を慰めるような行為をとるヌード女性モデルの表現は、単純に性的文脈へ回収されるべきものではない。むしろそれは、身体を介して自己と向き合う内省的行為として理解されるべき表現である。本論では、このような仕草が持つ精神的次元と、アートとして成立する条件について考察する。

人間の身体は、外界との接触点であると同時に、自己意識が立ち返るための最も原初的な場所である。とりわけヌードという状態は、社会的役割や記号性が剥奪された、最小単位の「自己」を露呈させる。その身体が自らに触れる、あるいは包み込むような仕草をとるとき、そこには他者へ向けたメッセージよりも、自己確認としての動作が前景化する。

この種の行為は、欲望の発露というよりも、不安や揺らぎに対する応答として現れる場合が多い。モデルは観られる存在でありながら、同時に自らの内面へと沈潜していく。その二重性——外に開かれた身体と、内に閉じる意識——が交差する地点に、独特の緊張が生じる。ここで表出されるのは快楽ではなく、自己の輪郭を確かめ直すための静かな集中である。

精神分析的視点から見れば、身体に触れる行為は自己の境界を再構築するための原初的動作と捉えられる。人は不安定な状況に置かれたとき、言語以前のレベルで身体へと回帰する。この回帰は退行ではなく、自己の統合を回復するためのプロセスである。ヌード表現においてこの行為が含まれるとき、身体は他者の視線に晒されながらも、主体性を失わないための拠点として機能する。

アートの文脈において重要なのは、この行為が「見せるため」に構成されているか否かである。意図的に演出された場合、それは記号化され、容易に消費されるイメージへと転落する。一方、即興性の高いコラボレーションの中で生じた場合、この仕草はモデル自身も完全には制御できない内的反応として立ち現れる。その瞬間、写真は行為を説明するのではなく、行為が生じてしまった精神状態を封じ込める。

このような身体表現は、エロティシズムと無縁ではないが、その質は一般的な意味での官能性とは異なる。エロティシズムを「自己の閉鎖性が一時的に破られる瞬間」と捉えたジョルジュ・バタイユの概念を援用すれば、ここで問題となるのは快感ではなく、自己が自己に触れることによって生じる裂け目である。その裂け目は、他者の視線によって拡張され、精神的緊張として像に刻まれる。

写真家とモデルの関係性において、このような表現が成立するためには、強い信頼と非支配的な距離が必要となる。モデルが自己の内面へと降りていくことを許され、写真家がそれを過度に意味づけしないとき、行為は象徴として機能し始める。そこでは、撮る者も撮られる者も、意味の決定権を完全には握らない。

結論として、自信を慰めるような行為を含むヌード表現は、身体を快楽の器として提示するものではなく、自己の不確かさを身体を通じて引き受ける精神的身振りとして理解されるべきである。その像が見る者に不安や戸惑いを与えるとすれば、それは身体があまりにも正直に、内面の揺らぎを可視化してしまうからに他ならない。

この表現がアートとして成立するのは、身体が意味を語る前に、沈黙として立ち上がる瞬間を捉えているからである。そこにあるのは誘惑ではなく、自己と向き合う人間の、きわめて脆く、しかし確かな精神の痕跡である。

Tetsuro Higashi Photograph Consensus

Tetsuro Higashi Photograph Image

モデルとフォトグラファーの間には、絶対に詰まることのない距離感みたいなものがあって、その距離が絶妙であれば、作品にもそのニュアンスが生きてくる。 

Tetsuro Higashi Photograph Works

何がその人に不幸をもたらしているのか?

何がその女性に不幸をもたらしているのか? それが当たっているかどうかは分からないが、たぶん”こういうこと”なのだろうと思うことがある。 僕は直観力が並外れているところがあって、的を得ていると思うのですが。 でも、精神科医でもなければカウンセラーでもなく、占い師でもないので解決法や良い導き方は分かりません。 

幸福というものは相対的なもので、”絶対の幸せ”というものはないのですが、不幸には”絶対の不幸”はあると考えてます。 大抵の不幸はお金が解決しますが、お金をもってしても解決できない不幸はあると思ってます。 ”心の闇”は、僕のような能天気な人間には想像もできないほど深く根が張っているようなのです。   

2022年 大谷の活躍を予想

Photo : Art Pazat

2022年の大谷の活躍を予想 ・・・

ホームラン38本、打点115、打率 0.286、15勝4敗、 防御率 2.68  

これだけの記録を残せば、MVPは間違いない。 

本当のところは、数字などはどうでもよく、

シーズンを通して、元気にプレーしてくれればそれが一番。

ホームランの数が少ないのではないか、言われそうだが、

相手のピッチャーが研究してくるからね、これくらいが妥当なところ。

問題は15勝できるかどうか・・でしょう。

打たせて捕るピッチングになりそうだから、イニング数は多くなり、

出来れば、防御率は3以下にしたいですね。