
フェミニズムおよび「見る視線」への批判



気づくと、1日のほとんどを誰かのことを考えて過ごしている。友達のLINEの返信が遅いとか、SNSの投稿に「いいね」がつかないとか。誰かの反応が、自分の気分を左右している。そんなふうに、人との関係の中で生きている時間が、だんだん自分の世界のすべてみたいになっていく。
でもある日、ふと「このままでいいのかな」と思った。もし私の世界が、人間関係の中だけに閉じているとしたら、それはかなり苦しいことなんじゃないかと気づいたのだ。恋愛、友達、家族、職場、SNS――どれも大切だけど、全部が人との関係の中にある。そこにしか心の居場所がないと、誰かのちょっとした一言や無視で、世界全体が崩れたように感じてしまう。
人間関係って、実はすごく不安定なものだ。どんなに仲が良くても、誤解したり、離れたりすることがある。だから、それだけを支えにしていたら、心はいつも揺れてしまう。私も以前は、誰かに好かれていないと自分の価値がないように感じていた。SNSで反応が少ないと、まるで存在を否定されたような気分になった。でも、それって他人の感情に自分の心を預けているだけなんだと、少しずつわかってきた。
人間関係以外の世界に触れると、心が少し自由になる。たとえば、本を読む時間、音楽を聴く瞬間、風の匂いを感じる散歩。そういう「誰とも関係のない時間」に、自分の呼吸が戻ってくる気がする。誰かの目を意識しない時間の中で、「ああ、自分ってこういう人間なんだな」と静かに感じることができる。
最近は、SNSを少し距離をおいて使うようにしている。人とのつながりは大事だけれど、それだけが自分の世界ではないと知ったからだ。スマホを置いて、空を見上げたり、街を歩いたりしていると、世界が思っていたよりずっと広いことに気づく。人間関係の外側にも、ちゃんと自分を支えてくれるものがある。
人とつながることは生きるうえで大切だけれど、それに縛られすぎないことも同じくらい大事だと思う。人の中にいながら、同時に自分の中にも世界を持っていたい。誰かと笑い合える自分でありながら、一人でも静かに幸せを感じられる自分でいたい。
世界は、きっと人間関係の外にもちゃんと広がっている。そこに目を向けられるとき、人との関係も、もっと優しいものに変わっていくのだと思う。

Photo : syuppo model : kuroneko koyomi






写真表現における「トリミング」は、単なる画面の調整ではなく、撮影者の美意識と思想が最も鮮明に現れる行為である。被写体のどの部分を切り取り、どの部分を残すかという判断は、視覚的なセンスのみならず、文化的背景に根ざした「世界の見方」を反映している。特に日本と西洋のカメラマンを比較すると、そのトリミングの思想には明確な違いが見られる。それは「全体を構築する」西洋のトリミングと、「余白を生かす」日本のトリミングの差異とも言える。
西洋の写真文化は、ルネサンス以降の「遠近法」や「黄金比」の伝統に支えられている。絵画においても写真においても、画面は均衡と秩序によって構成され、被写体はフレームの中心的役割を担う。この思想のもとでは、トリミングは構図の「整序」行為であり、フレームの中に意味を閉じ込めるための操作として働く。たとえば、アンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」は、構図が完璧に統御された画面の中に、時間と運動の美を封じ込める試みである。彼のトリミングには、秩序・明確さ・論理性という、西洋的な美の根幹が貫かれている。
一方、日本の写真家たちは、構図において「余白」や「未完」の美を重視する傾向が強い。これは日本文化に古くから根づく「間(ま)」の美学、「わび・さび」の感性と深く関わっている。被写体を中央に置かず、あえて空間の片隅に配置する。すべてを明確にせず、見る者の想像にゆだねる。こうしたトリミングの感覚は、西洋の均衡的構図とは異なり、「欠け」や「余白」に美を見出す日本的視覚思想の表れである。木村伊兵衛や土門拳の作品にも、そうした“間の緊張感”が漂っている。特に木村のポートレートには、人物の周囲に残された空気や距離感が、被写体そのもの以上に人間性を語っている。
この差異は、世界の捉え方そのものに起因している。西洋では、世界は「客観的に把握される対象」としてあり、写真はその対象を明確に記録・構成する手段と考えられる。したがって、トリミングは「現実を秩序化する行為」である。それに対し日本では、世界は「関係性の中に生まれる現象」としてとらえられる傾向が強い。対象と撮影者、見る者と見られる者の間には流動的な関係があり、その“あいだ”に写真が生まれる。したがって、日本的なトリミングは、対象を囲い込むというよりも、「流れの一部をそっとすくい取る」ような性質をもつ。
さらに、西洋のカメラマンはトリミングを「構図の完成」のために用いるのに対し、日本のカメラマンは「不完全の中の完成」を志向する傾向がある。西洋的な作品では、画面の端まで意味が配置され、視線は秩序だって導かれる。これに対し日本の写真では、画面の外に広がる世界を感じさせる「余白」や「切れ」を重視する。篠山紀信や森山大道の写真には、しばしば画面の外に想像を誘う断片性がある。特に森山のモノクロ作品では、トリミングによって生まれる荒れたフレームが、現実の不安定さそのものを象徴している。ここには、「美しく整える」ことではなく、「生の瞬間を切り取る」ことへの執着がある。
また、被写体に対する倫理的距離も異なる。西洋のカメラマンは、被写体を独立した存在として構図化し、主体的な美として扱う。一方、日本のカメラマンは、被写体との関係性を尊重し、カメラの存在を前面に出さない傾向がある。たとえば、細江英公が撮った『鎌鼬』のシリーズでは、人物と風景、現実と幻想が渾然一体となっており、トリミングの境界も曖昧である。これは、カメラマンが「撮る者」ではなく「共に在る者」として関わる日本的態度の象徴である。
このように、トリミングをめぐる日西の差異は、「明示と暗示」「支配と共存」「構成と余白」という対立軸で整理できる。西洋のトリミングは、世界を秩序づけ、意味を構築する。日本のトリミングは、世界の流れの中で一瞬を受け入れ、意味を滲ませる。どちらが優れているというより、それぞれが異なる美意識と歴史を背負っているのだ。
現代のグローバルな写真表現では、この二つの感性がしばしば交差している。日本の若い写真家が西洋的な構図の精緻さを取り入れる一方、欧米の写真家が日本的な「間」の感覚に影響を受けることも多い。デジタル時代において、トリミングは編集ツールの操作以上に、「文化の翻訳」としての意味を持ち始めているのかもしれない。
最終的に、トリミングとは「何を見せ、何を見せないか」という選択であり、その選択こそが文化の鏡である。西洋が「完結した画面」に美を求めるのに対し、日本は「余韻の残る画面」に真実を見出す。カメラのフレームの中に映るのは、単なる被写体ではなく、それを切り取る人間の思想そのものなのである。

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上の画像は原画。 編集はしてますが、トリミングだけはしてません。 このまま、トリミングしないでもよさそうですね。 僕は上手に撮ろうとは思ってませんので、原画の時点で、顔が半分切れてしまってます。

見たいところが観れるような感覚に治めると、こうなります。

こういうのも、面白いかな?と思って・・下はトリミング後の画像。

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これから下の画像では、いろいろと面白そうな感覚になそうなところで切ってます。

より易しく写真を撮りたいなら、後にトリミングできるように周囲に余裕を持たせて撮ってくことですね。 後で、切ればよいのですから。 こうして、試しているのは、写真編集の楽しさが伝われば?と思って・・


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管理・維持は続けられるように”手配”

写真とは、瞬間を永遠に留めようとする残酷な行為だと、私はいつも思う。裸体であり、さらに縄で縛られた女性の写真とは、その残酷さを極限まで高めたものである。そこにあるのは、単なる被写体と撮影者の関係ではなく、「見る者」と「見られる者」が互いに侵食しあう、危うい心理の劇である。

写真とは、瞬間を永遠に留めようとする残酷な行為だと、私はいつも思う。裸体であり、さらに縄で縛られた女性の写真とは、その残酷さを極限まで高めたものである。そこにあるのは、単なる被写体と撮影者の関係ではなく、「見る者」と「見られる者」が互いに侵食しあう、危うい心理の劇である。
サルトルは『存在と無』で、「他者の視線によって私は対象と化す」と書いた。彼の言う「他者の視線」とは、まさにカメラのレンズのことでもある。ヌードで縛られた女性は、レンズの前において完全に「見られる存在」となり、自らの主体性を放棄するかのように思える。しかしその瞬間、彼女の内側では逆説的な変化が起こる。
「見られている」と強く意識したそのとき、彼女はむしろ「自分がどう見られるか」を支配する側に立つのだ。
ボードレールは『悪の華』の中で、女の美を「苦痛の香りを放つもの」とした。縛られる行為とはまさにその「苦痛の香り」を視覚化する儀式である。縄は肉体を拘束するが、その跡が皮膚に残るとき、そこには一種の美学が生まれる。痛みと美、屈服と誇りが、同じ一本の縄の上で共存している。
彼女が感じる羞恥は、もはや単なる恥ではない。それは、肉体を媒介にして自己と世界を再定義しようとする意志の発露である。

カメラのシャッターが切られる瞬間、彼女は「裸の女」ではなく、「裸を演じる女」となる。その演技のなかに、彼女は微かな自由を見いだす。拘束されながら、実は誰よりも自分の存在を選び取っている。
フランスの作家マルグリット・デュラスは言う。「沈黙する女は、誰よりも多くを語る」。縄に縛られ、声を持たない彼女の身体は、沈黙のうちに千の言葉を語っている。
その沈黙を聴けるかどうかは、撮影者や観る者の倫理にかかっている。
女性の心理の奥に潜むのは、被虐の悦びではなく、「見られることによって存在を確かめたい」という、根源的な欲求である。縄はその象徴であり、彼女の内部にある「限界への希求」を形にする道具なのだ。
こうして生まれた一枚の写真は、美と暴力、羞恥と誇り、従属と支配が絡み合った、ひとつのフランス的パラドックスとなる。
その中で彼女は囁くように微笑む。
――「私を縛るものは、あなたではない。私自身なのだ」と。


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人生とは、時に理不尽で、時に容赦ないものです。特に、女として生まれた人生には、他者には理解されにくい痛みや葛藤が潜んでいることがあります。家庭の事情、社会からの圧力、理不尽な差別、あるいは愛する人からの裏切り。幼い頃に経験した心の傷が、いくつになっても癒えずに残っていることもあるでしょう。夢を持つことすら許されず、誰にも頼れずに、ただ日々を耐え抜いてきた方もいるかもしれません。
あなたの半生が、どれほど悲惨で、孤独で、苦しかったとしても、あなたの価値が失われることは決してありません。過去に何があったとしても、それはあなたが弱かったからでも、間違っていたからでもありません。ただ、過酷な運命の中で懸命に生き抜いてきた、ひとりの強い女性の物語です。
人は、過去を変えることはできません。しかし、未来は、今日という一日から変えていくことができます。年齢を重ねたからといって、幸せをあきらめる理由にはなりません。むしろ、今までの経験こそが、これからの人生をより豊かに、意味あるものへと変える力になります。
これまでの人生で、たとえ笑顔が少なかったとしても、これからは心から笑える時間が訪れてほしい。無理に頑張らなくてもいい。もう誰かに認められようと無理をしなくてもいい。あなたがあなたらしく、安心して過ごせる場所が、きっとどこかにあります。そしてそれは、これからの行動や選択の中で、少しずつ形になっていきます。
どうか、自分を責めないでください。あなたがしてきたこと、耐えてきたことは、誰にも真似できない尊いものです。苦しみの中で見えた優しさや思いやりは、あなたの中にちゃんと根付いています。その優しさが、今後あなた自身を癒やし、そして誰かを救う日が来るかもしれません。
たとえこれまで信じていたものが壊れてしまったとしても、新しい人生を築くことはできます。孤独を感じたときは、どうか誰かに助けを求めてください。あなたの苦しみに耳を傾け、心を寄せてくれる人は必ずいます。人は、どんなに傷ついても、誰かとのつながりの中で再び歩き出すことができるのです。
人生の後半戦は、あなたのために使ってください。誰かの期待のためでも、過去の償いのためでもなく、「自分自身が幸せだと思える日々」のために。ゆっくりでいい。小さな喜びを見つけながら、一歩ずつ、自分のために歩いていきましょう。
あなたのこれからの人生が、温かく、穏やかで、心から「生きていてよかった」と思えるものでありますように。誰かにではなく、あなた自身に「よく生きてきたね」と言える日が、必ず来ます。
どうか、自分を大切に。
そして、あなたの幸せを、心から願っています。




Mone Anri(モネ・アンリ)氏は、2014年5月に京都・アトリエ路樹絵にて美術モデルとしての活動を開始。以降、主に京都・大阪・名古屋での絵画教室やクロッキー会に参加され、2015年4月には東京に拠点を移して都内での活動も展開されています。

モデルとしてのご依頼・ご相談については、ホームページ内の「活動とサービス」欄や「お問い合わせ」ページから連絡が可能です。氏のサイトには、SNSリンク(Instagram/Facebook)も設置されており、最新の活動や作品掲載状況をフォローすることもできます。moneanri.wixsite.com