
「人間関係だけの世界観がもたらす閉塞」
私たちは社会的存在であり、人との関わりの中で生きている。恋愛、友情、家族、職場、SNS――日常のほとんどが「人間関係」によって成り立っていることは確かである。しかし、もし世界のすべてを「人との関係」だけで測るようになったとき、その人の心はゆっくりと病んでいく。引用文が指摘する通り、世界観が人間関係の中だけに閉じてしまうことは、精神的な自由を失うことに等しい。
なぜなら、人間関係は本質的に不安定なものだからである。他者の感情、言葉、態度は常に変化し、自分の思い通りにはならない。世界を他者との関係性だけで捉える人は、常に他人の評価や反応に自分の価値を委ねてしまう。誰かに好かれていれば安心し、拒絶されれば自分の存在が脅かされる。そのような心理状態は、まるで他者の手のひらの上で生きているようなものだ。結果として、自己の中心が自分の内側ではなく、他人の外部に置かれてしまう。これが「心の病み」へとつながる最も典型的な構造である。
世界を広く見るためには、人間関係の外側にあるもの――自然、芸術、知識、時間、宇宙、あるいは沈黙の中にある自分自身――に心を開く必要がある。山を眺め、風を感じ、音楽を聴き、読書を通して過去の思想家と対話する。そうした「非人間的世界」との接触が、私たちの心を再び広げ、他者との関係に呑み込まれない自己を育む。人間関係は大切だが、それだけでは生きる世界が狭すぎる。世界を広く感じられる人ほど、人との関係にも余裕と深みが生まれる。
現代社会ではSNSが人間関係を可視化し、他者の承認が生きる糧のように錯覚されている。しかし、他者の「いいね」に依存して自己の存在を確認しようとすることは、実は非常に危うい。人間関係は本来、自己と他者が対等に向き合う場であるべきだが、承認を求める構造の中では容易に支配と依存の関係へと転化してしまう。だからこそ、人間関係以外に自分を支える「軸」を持つことが、精神の健康にとって不可欠なのだ。
世界観が人間関係だけに閉じてしまうとき、人は他者を通してしか世界を見られなくなる。だが本来、世界はもっと広く、深く、豊かなものである。人間関係はその中の一部であり、すべてではない。自分の内に沈黙と孤独を保つこと――その静かな空間こそ、他者との関係に飲み込まれずに生きるための「精神の呼吸」なのだ。

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悩んでる人からの相談も多く受けますし、私も人間関係において少なからず悩まされます。 ですから、相談してくる人も私もけっこう病んでることになります。 だから、病んでいく過程も気持ちもだいたい理解できます。

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「夜空の星を見てごらん・・この途方もないような大きな宇宙の中にあって・・人がどんなに小さな存在であって・・」とかという”神秘的な話”じゃなくて、そもそも、人は自然の中のたくさんの植物や動物の中の”一種族”でしかないわけで、世界観を人間社会という狭い枠に閉じ込めないで、自然という当たり前の枠の中に戻してやれば良いと思うわけです。 だから、自然があって、その後に人間社会が出来たのです。

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悩みとか病んでしまうこととか、それは人間の免疫機能と似ているところがあって、(限られた枠内の)ある一定量を超えるとアレルギーとして出て来てしまうわけで、その枠(世界観)を広げてやれば、許容量も大きくなり、悩みはあっても、病むことには至らないですむわけです。

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アレルギーに関して、現時点での医療では、受け皿としての枠を広げることはできませんが、心(精神)の枠は広げることが出来ます。

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形象学(フォルモロジー)という独特の学問手法と体得