
複数の「生」を一枚に収めるという行為について
レアな生な写真を一枚の画像の中に複数配置する試みは、写真表現における根源的な前提——すなわち「写真は一瞬を一枚に定着させるものだ」という常識——を静かに揺さぶる行為である。
写真は、現実の断片を切り取る装置として発展してきた。シャッターが切られた瞬間は二度と戻らず、その不可逆性こそが写真の_toggle_とも言える価値を支えてきた。とりわけ、演出や加工を排した「生な写真」は、撮影者と被写体のあいだに生じた一回限りの関係性を、そのまま封じ込めた証拠である。その意味で、生な写真は本質的に「孤独な存在」であり、一枚で完結することを宿命づけられている。
しかし、複数の生な写真を一枚の画面に同時に置いた瞬間、その宿命は崩れる。そこでは時間が直線的に流れることをやめ、前後関係や因果は解体される。鑑賞者は、どれが先でどれが後なのかを判断できず、ただ複数の現実が同時に存在している状況に立たされる。この構造は、絵画史において単一視点を否定したキュビスムの態度と通じるものがあるが、ここで扱われているのは描かれた現実ではなく、撮影された現実そのものだという点で、より生々しい緊張を孕んでいる。
さらに重要なのは、「生」が複数並ぶことによって生じる違和感である。いずれも加工されていない、いずれも事実であるがゆえに、写真同士が互いを説明せず、むしろ衝突する。そこには調和も物語もない。ただ、真実が複数存在するという事実だけが露出する。この不安定さは、写真を鑑賞の対象から、見る側の感覚や倫理を問い返す装置へと変質させる。
また、この形式は視線の主導権を撮影者から奪う。通常の写真では、フレーミングや構図によって、見る順序や焦点がある程度規定される。しかし複数の写真が一枚に配置されると、視線は彷徨い、鑑賞者自身がどこを見るかを選ばざるを得なくなる。結果として、作品の意味は作者の意図よりも、鑑賞者の内面によって立ち上がる割合を増していく。
興味深いのは、「レアな写真」を重ねることで、逆説的に「レアであること」そのものが相対化される点である。唯一無二であるはずの瞬間が複数並ぶことで、個々の特別性は揺らぐ。しかしそれは価値の喪失ではない。むしろ、「唯一性」や「生」という概念が、いかに不安定で、文脈に依存したものであるかを浮き彫りにする。
この試みは、写真をより派手にするための技法ではない。時間の秩序を壊し、視線の安定を拒み、現実が一つではないことを静かに提示するための、意識的な選択である。一枚の中に複数の生を収めることは、現実を説明する行為ではなく、現実の複雑さをそのまま残す行為なのだ。
その不親切さ、理解しにくさこそが、この表現をアートとして成立させている。写真が「分かりやすい記録」であることをやめたとき、そこに初めて、思考を促す沈黙が生まれるのである。

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Art-model Yu : Red Flame 2