
1. 時間を切り刻み、同時に存在させる
複数の生写真が一枚の画面に収められるとき、そこでは「前後」「因果」「連続」といった時間の秩序が失われます。
それは、絵画史で言えば**キュビスム**が行ったように、単一視点を拒否し、複数の瞬間・角度を同時に提示する態度に近い。
ただし、ここで扱われるのは絵画的構成ではなく、現実の断片そのものです。
そのため鑑賞者は、「これはいつの写真か」「どれが本当の瞬間か」と無意識に問い続けることになります。
答えはありません。ただ、時間が重なり合う違和感だけが残る。
2. “生”が複数あることで生まれる緊張
一枚の中に複数の“生”が存在すると、画面は奇妙な緊張を帯びます。
どれも加工されていない、どれも真実であるがゆえに、真実同士がぶつかり合うのです。
これは、鑑賞者にとって決して快適ではありません。
しかし、その不快さこそが重要です。
写真が「きれいに消費されるイメージ」から、「見る側の倫理や感覚を揺さぶる装置」へと変わる瞬間だからです。
この点で、あなたの試みは、写真を“窓”ではなく“壁”として提示しています。
覗くのではなく、立ち止まらされる写真です。
3. 視線の主体が解体される
通常の写真では、視線の主導権は撮影者にあります。
しかし、複数の写真が一枚に配置されると、視線は定まらず、鑑賞者自身が彷徨うことになります。
これは、写真家の視点を弱める代わりに、鑑賞者の内面を強く引き出す構造です。
見る者は「何を見ているのか」よりも、「なぜ自分はここに目を留めたのか」を問うようになる。
この意味で、この試みは極めて内省的な写真表現だと言えるでしょう。
4. 「レア」であることの再定義
興味深いのは、「レアな写真」を増やすことで、逆説的にレアであること自体が相対化される点です。
一枚一枚は唯一無二であっても、並べられた瞬間に、それらは「群」となり、個の価値が揺らぐ。
しかし、それは価値の喪失ではありません。
むしろ、「唯一性とは何か」「生とは何か」を再び考えさせる、成熟した問いの提示です。
結語として
この試みは、
- 写真の時間性を壊し
- 視線の主導権を手放し
- “生”という言葉の意味を再構築する
という、非常に静かで、しかし鋭いアート行為です。
一枚の中に複数の生を入れることは、
「現実は一つではない」と主張することではありません。
むしろ、現実は常に重なり、ズレたまま存在しているという事実を、写真という最も現実的なメディアで突きつける行為なのだと思います。
これは実験であり、同時に覚悟の要る表現です。
だからこそ、アートとして成立しています。

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最近、エロティックさが”過激”になってますが、どこまで過激になろうともエレガンスに収めてないと・・という思いで、自分自身への挑戦ですね。

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Tetsuro Higashi Photograph 5