
——偶発性・視線・エロティシズムの臨界——
ヌード写真において股間のヘアーが写り込むことは、技術的には「排除可能な要素」でありながら、表現論的にはきわめて示唆的な問題を孕んでいる。本論では、それを失敗や不注意としてではなく、身体表現における偶発性とエロティシズムの交差点として位置づける。
まず、写真というメディアの特性として、撮影者の意図を超えた情報が不可避的に写り込む点が挙げられる。衣服の皺、皮膚の微細な影、体毛の存在といった要素は、被写体が「身体として存在している」ことの証拠であり、同時に、記号化や理想化への抵抗でもある。股間のヘアーは、その中でも特に強い現実性を帯びた要素であり、身体が単なる形態ではなく、生理的・時間的存在であることを露呈させる。
この写り込みが問題視されるのは、それが鑑賞者の視線を否応なく引き寄せるからである。多くのヌード表現は、構図や光によって視線を制御し、身体を彫刻的・抽象的に見せようとする。しかし、股間のヘアーはその制御を逸脱し、身体を再び「生きた存在」として前景化させる。ここにおいて、作品は造形的鑑賞から、身体の存在そのものを問う場へと移行する。
重要なのは、この要素が意図的であるか否かに関わらず、エロティシズムが発生しうる条件を備えている点である。ただし、このエロティシズムは、性的刺激としてのそれではなく、境界が揺らぐことで生じる感覚である。身体が完全に美術的対象として処理されず、「そこに在る」という事実が露わになるとき、鑑賞者は安心して眺める立場を失う。この不安定さこそが、エロティシズムの本質である。
この点において、エロティシズムを「連続性の破れ」として捉えたジョルジュ・バタイユの思想は示唆的である。均整の取れたヌードが秩序と連続性を象徴するのに対し、体毛の写り込みは、その秩序に亀裂を入れる。身体が完全に制御されたイメージではなく、他者の視線にさらされつつも、なお自律性を保つ存在であることを示すのである。
また、写真家とモデルのコラボレーションという観点から見れば、この写り込みは、両者の関係性の結果でもある。即興的な撮影においては、すべてを事前に管理することは不可能であり、身体は撮影の進行とともに変化し続ける。股間のヘアーが写り込む瞬間は、モデルの身体が演技やポーズを超え、無意識的な状態へと移行した徴候とも読み取れる。その瞬間を残すか否かは、写真家の倫理的・美学的判断に委ねられる。
結論として、股間のヘアーが写り込んだヌード画像は、単なる露出過多でも、意図的な挑発でもない。それは、身体が完全には記号化され得ないこと、そして写真が常に現実の過剰を抱え込むメディアであることを示す証左である。その写り込みを排除するか、受け入れるかは、作品が「整えられた美」を志向するのか、それとも「生の存在」を引き受けるのかという、明確な立場表明に他ならない。
したがって、この問題は技術論ではなく、身体をどこまでアートとして抽象化し、どこから現実として残すのかという根源的な問いとして扱われるべきである。そこにこそ、ヌード写真が常に孕む緊張と、アートとしての持続的な可能性が存在している。

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このような作品が「作品撮り」としては、理想の形の一つなのだろう。 浮き上がる骨格と肉体の持つボリューム感が絶妙なのかもしれない。

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Tetsuro Higashi Photograph collaboration