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アジサイの枯れ花と、歩くということ
森を歩いていた。季節は、もう秋の深まりを迎えている。葉は黄に、褐に、そして静かに土へと還ってゆく。足元にふと、色の抜けたアジサイの花が落ちているのを見つけた。
それは、もはや花ではなかった。咲いていたときの華やかさやみずみずしさはとうに失われ、色は褪せ、形も少し崩れていた。けれど、私はその花を「きれいだ」と思った。
どこか痛ましく、そしてどこか、やさしい。
しゃがんで拾おうかどうか迷ったが、指先を伸ばすことはしなかった。ただ、立ち止まって見つめて、それからまた歩き出した。
目的はなかった。ただ歩きたかったのだ。行きたい場所があるわけでもないし、誰かに会う予定があるわけでもない。ただ、森に入りたかった。何かを探していたのかもしれないし、何も見つけたくなかったのかもしれない。
アジサイは、雨の季節の象徴のような花だ。だが、この枯れた姿には、晴れた午後の静けさがあった。風に吹かれて、カサカサと音を立てるような軽さ。咲いていたときよりも、この花はなにかを語っているような気がした。
私は、自分の中にもそんな「枯れたアジサイ」のような感情があることを思った。ずっと前に終わった出来事、消えてしまった言葉、遠くなった誰か。もう何の力もないようでいて、けれど、いまでもときどき足を止めさせるもの。
それは悲しみではなく、ある種の赦しのようでもあった。
歩くこと。目的もなく。ただ、風の音と自分の足音を聴きながら進むこと。そうして森を出る頃には、胸の奥のざわめきも少しやわらいでいる。
枯れた花は、踏まずにそっとよけた。触れなかったけれど、たしかに心のなかに持ち帰った。
誰かと話すでもなく、何かを書くでもなく、ただ黙って歩く。そんな時間が、私にはときどき必要になる。
理由は、たぶん、まだ知らないままでいいのだと思う。

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