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この画像は「自撮り」ではありませんが・・
「暗室で女性が裸体の自撮りをする」という行為には、心理学的にいくつもの興味深い要素が絡み合っています。それは単なるポートレートの撮影ではなく、自己認識、身体性、アイデンティティ、そして無意識との対話の場であると言えます。
1. ミラー・ステージの延長としての暗室
ジャック・ラカンの「鏡像段階」を想起させるこの行為は、鏡とは異なる形で自己を再認識する試みです。鏡の前での自己確認とは異なり、暗室では即時のフィードバックがありません。撮影後、像が浮かび上がるまでの「待つ時間」は、自己像の形成と再構築のプロセスと重なります。この遅延によって、女性は自己を静的なものではなく、変容し得る存在として体験するのです。
2. フーコー的視点:身体の権力と自己の主体化
ミシェル・フーコーは、権力が人々の身体に刻まれる過程を論じました。女性が裸体の自撮りをすることは、他者の視線から解放された「自己のための身体」を探求する行為とも言えます。暗室というクローズドな空間で行われることで、自己の身体を社会的規範から切り離し、純粋な存在として向き合う契機となります。これは、自己の主体化(subjectivation)の一環とも考えられます。
3. フェミニズムと視線の逆転
ローラ・マルヴィの「男性的視線(Male Gaze)」の概念に照らせば、女性の裸体は伝統的に男性の視線によって意味づけられてきました。しかし、女性が暗室で自らの裸を撮ることは、「男性的視線」からの解放を試みる行為です。他者の期待に応じた自己ではなく、「私が見る私」を構築する行為。この視線の転換は、女性の主体性の再獲得といえるでしょう。
4. ユング的無意識との対話
ユング心理学の観点では、このような行為は「影(シャドウ)」との対話とも捉えられます。暗室は無意識の象徴であり、裸体は「ありのままの自己」。自らを撮影することは、自己の深層にある抑圧や欲望を可視化する試みです。現像された写真は、単なる自己の再現ではなく、無意識からのメッセージを含んだ「もうひとりの私」との出会いなのです。
5. 現代的なナルシシズムとデジタル化の対比
現代ではスマートフォンによるセルフィー文化が浸透し、「即時にフィルターをかけられる自己像」が主流です。しかし、暗室でのセルフポートレートは、デジタルの即時性と対極にあります。これは、ナルシシズムの新しい形態とも言えます。ここでのナルシシズムは、単なる自己愛ではなく、時間をかけて自己と向き合うプロセスです。デジタルな美化された自己像とは異なり、暗室の中で浮かび上がる自分は、より本質的な「私」なのかもしれません。

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