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ヌードというテーマに向き合うことは、私にとって非常に個人的であり、深い探求を伴うものでした。創作者として、最初はただ単に被写体の美しさを捉えようとする意識が強かったものの、次第にヌードにはより根源的な意味があることに気づきました。ヌードとは、単なる身体の描写や撮影ではなく、埋もれてしまった言語であり、普段は認識されることの少ない、しかし私たち全ての人間が持つ普遍的な表現手段なのではないかと感じたのです。
ヌードを通じて表現することは、私にとって身体そのものを「読む」ことに等しい体験でした。特に写真を始めたばかりの頃、ヌードという題材は私の中で非常に難解なものに感じられました。それは単に技術的な問題ではなく、ヌードが持つ深い意味、そしてその表現に対する社会的な捉え方に影響されたものです。しかし、私はヌードに惹かれ、そこに込められた感情や無意識の領域を探求したいという強い思いを抱いていました。
あるとき、私は自分のカメラを通じて、被写体の裸体をただの肉体としてではなく、ひとつの言語として読み解くことができる瞬間を経験しました。それは、言葉では説明しにくい感覚でしたが、ヌードが持つ普遍性が、被写体の動きや表情、影の陰影の中に表れていたのです。その瞬間、私はヌードが単なる「視覚的な美」以上のものを持っていると確信しました。
創作活動を通じて、私はしばしばこの「埋もれてしまった言語」としてのヌードに立ち戻ります。それは、誰もが持っている言語であり、無意識のうちに磨き上げてきた表現手段のひとつであると感じています。ヌードをテーマにする際には、常にその表現の裏にある感情や無意識の思考を探ろうとする自分がいます。
ある作品を撮影した際、私はその被写体との間に言葉を超えたコミュニケーションが成立したような感覚を覚えました。被写体は、私に自分の身体を預け、自分自身を見せることに対する勇気と信頼を示していました。そして、私はその信頼に応える形で、彼女の姿をカメラに収めました。その瞬間、彼女の身体は単なる物理的な存在ではなく、私たちの間に流れる感情や無意識の思考が形となって現れたように感じられました。ヌードという題材を通じて、私は被写体の心の中にある「言葉にできない言葉」を引き出し、それをカメラで捉えようとしたのです。
この体験を通じて私は、ヌードが持つ普遍性について深く考えるようになりました。すべての人間は、自分自身の身体を通じて何かを表現し続けてきたのだと思います。それは、意識的にであれ無意識的にであれ、私たちの身体には多くの感情や思考が蓄積されており、それを他者と共有するための方法が、ヌードという形で表れるのではないでしょうか。ヌードは単なる裸体の描写ではなく、私たちが日常的に感じることのない、しかし確かに存在する「言語」なのだと思います。
創作を続ける中で、私はヌードが持つこの無意識の言語に魅了され続けています。被写体との信頼関係が築かれた瞬間、その身体は単なる肉体以上の意味を持ち始め、カメラのレンズを通して新たな物語を語り始めます。それは、言葉では説明できない感情や経験、そして無意識の中にある「何か」が、身体を通じて外に表れたものです。
このような体験を通じて、私は創作者としての自分自身を成長させてきました。ヌードを撮影することは、ただ美しさを捉えるだけではなく、被写体と共にその深層にある感情や思考を探り、表現する試みなのです。ヌードは私にとって、普遍的な言語であり、誰もが無意識のうちに磨き上げてきたものであると感じています。
この「埋もれてしまった言語」としてのヌードは、私にとって創作の原動力であり、被写体との間に生まれる感情や無意識の交流を通じて、作品を完成させるための重要な手段となっています。そして、この過程を通じて、私は自分自身の感情や思考をも新たに発見し、表現することができるのです。

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Les Misérables