絞られた光の中で —— 縄とヌードの心理について

 写真とは、瞬間を永遠に留めようとする残酷な行為だと、私はいつも思う。裸体であり、さらに縄で縛られた女性の写真とは、その残酷さを極限まで高めたものである。そこにあるのは、単なる被写体と撮影者の関係ではなく、「見る者」と「見られる者」が互いに侵食しあう、危うい心理の劇である。

 サルトルは『存在と無』で、「他者の視線によって私は対象と化す」と書いた。彼の言う「他者の視線」とは、まさにカメラのレンズのことでもある。ヌードで縛られた女性は、レンズの前において完全に「見られる存在」となり、自らの主体性を放棄するかのように思える。しかしその瞬間、彼女の内側では逆説的な変化が起こる。
 「見られている」と強く意識したそのとき、彼女はむしろ「自分がどう見られるか」を支配する側に立つのだ。

 ボードレールは『悪の華』の中で、女の美を「苦痛の香りを放つもの」とした。縛られる行為とはまさにその「苦痛の香り」を視覚化する儀式である。縄は肉体を拘束するが、その跡が皮膚に残るとき、そこには一種の美学が生まれる。痛みと美、屈服と誇りが、同じ一本の縄の上で共存している。
 彼女が感じる羞恥は、もはや単なる恥ではない。それは、肉体を媒介にして自己と世界を再定義しようとする意志の発露である。

 

 カメラのシャッターが切られる瞬間、彼女は「裸の女」ではなく、「裸を演じる女」となる。その演技のなかに、彼女は微かな自由を見いだす。拘束されながら、実は誰よりも自分の存在を選び取っている。
 フランスの作家マルグリット・デュラスは言う。「沈黙する女は、誰よりも多くを語る」。縄に縛られ、声を持たない彼女の身体は、沈黙のうちに千の言葉を語っている。

 その沈黙を聴けるかどうかは、撮影者や観る者の倫理にかかっている。
 女性の心理の奥に潜むのは、被虐の悦びではなく、「見られることによって存在を確かめたい」という、根源的な欲求である。縄はその象徴であり、彼女の内部にある「限界への希求」を形にする道具なのだ。

 こうして生まれた一枚の写真は、美と暴力、羞恥と誇り、従属と支配が絡み合った、ひとつのフランス的パラドックスとなる。
 その中で彼女は囁くように微笑む。
 ――「私を縛るものは、あなたではない。私自身なのだ」と。

Published by

不明 のアバター

Tetsuro Higashi

I was born and brought up in Tokyo Japan. Now I teach mathematics . At age 20 I took up painting. I took up taking photos before 5 years. I have learned taking photos by myself . I grew up while watching ukiyo-e and have learned a lot from Sandro Botticelli , Pablo Picasso. Studying works of Rembrandt Hamensz . Van Rijn, I make up the light and shadow. * INTERNATIONAL PHOTO EXPO 2015 / 26 February ~ 31 March Piramid Sanat Istanbul, Turkey * World Contemporary Art 2015 Nobember Piramid Sanat Istanbul, Turkey * Festival Europeen de la Photo de Nu 06 ~ 16 May 2016 Solo exposition at palais de l archeveche arles, France *2016 Photo Beijing 13~26th October *Sponsored by Tetsuya Fukui 23 February - 02 March 2019 Cafe & Bar Reverse in Ginza,Tokyo,Japan *Salon de la Photo de Paris 8th – 10th – 11th 2019 directed by Rachel Hardouin *Photo Expo Setagaya April 2020 in Galerie #1317 *Exhibition NAKED 2020 in Himeji    Produce : Akiko Shinmura      Event Organizer : Audience Aresorate December 1th ~ 14th  2020

コメントを残す