
『紅花夢(べにはなゆめ)』
花街のはずれ、夕暮れに咲く
江戸・吉原の奥まった路地、表通りから外れた「柳の間」という寂れた揚屋に、一人の花魁がいた。名は紅葉(くれは)。
年は二十七、華やかさはすでに陰り、若い太夫たちの賑わう楼とは対照的に、彼女の部屋は静かで、蝋燭の灯も淡い。
かつては「菊屋の紅葉」と称され、若衆や武士が列をなすほどの人気を誇った。が、時代は移ろい、紅葉の名も忘れ去られつつある。
ある晩、雨の中を一人の侍が訪れる。
名を清之助(せいのすけ)。
十年前、まだ紅葉が売れっ子だった頃、ただの小僧だった彼は、偶然楼の裏手で倒れていたところを紅葉に助けられた過去があった。
紅葉は彼を覚えていなかったが、清之助は忘れていなかった。
「紅葉さま、あのとき、わたしは生きた。あれから剣の道を学び、今は下級ながら藩に仕えております。恩を返したく…」
そう言い、彼は紅葉を身請けしたいと申し出る。
だが、紅葉は笑って首を振った。
「わたしの身体は売れても、心はもうどこにもございません。
恩に報いたいのなら、二度とここへは来ないでくださいな」
そしてそっと襖を閉めた。

冬の夜、燃えるもの
清之助は毎月のように紅葉を訪ねてきた。金を持ち、贈り物を持ち、時には三味線を携えて、幼い恋心を歌に託すようにして。
だが紅葉は決して彼を受け入れようとはしなかった。
実は、紅葉には秘密があった。
十六の頃、同じ楼にいた男衆との間に子をなした。
その子は吉原の外れの寺に預けられ、今は九歳になる。
身請けされ、外へ出れば、かの子の存在は「不義密通」として露見するかもしれない。
そして子は斬られる。紅葉はそれが怖かった。
なにより、花魁としての名があるうちは、子の存在すら守る盾となる。
身を売ることでしか、守れぬものがあった。
それが紅葉の生きる理由だった。

春の嵐、花は散る
ある夜、紅葉の秘密を握った若い太夫が、身請けの話を耳にしてしまう。
嫉妬と野心に燃えた彼は、紅葉をおとしめるべく、寺にいる子の存在を藩に密告した。
その報せを受けた清之助は、紅葉を庇うために奔走するが間に合わず、役人が楼に押し寄せた。
紅葉は捕らえられ、取り調べの末に「男児を密かに産み落とし、隠していた」として、死罪を言い渡される。
子は寺から引き離され、遠くの養家へと送られることが決まる。
処刑の朝、紅葉は微笑みながら清之助に言った。
「春が来れば、あの子は菜の花を見るでしょう。
わたしの命のかけらは、きっとあの子の胸に咲きます」
斬首のその瞬間、見物人の中で清之助は涙を流し、
刀の柄を握りしめたまま、その場を動けなかった。

数年後、江戸の外れに小さな剣術道場が開かれた。
そこに通う少年の名は「楓(かえで)」。
剣の腕はまだ未熟だが、凛とした目をしていた。
道場主はかつての侍、清之助。
彼の背には紅の布を縫い込んだ羽織が揺れていた。
それは、紅葉が最期に纏っていた襦袢の一部であった。
