




『レースの奥の眼差し』
――あるパリの詩人の手記より
パリの朝は、霞のように柔らかい。サン=マルタン運河沿いのカフェで、私はよく奇妙な紳士に出会う。名をエミールという。彼は香水よりも古書の紙の匂いが似合う男で、日々の憂鬱をシャンソンと女性のランジェリーで紛らわせている。
ある日、彼は私にこう語った。
「詩というものは、レースとよく似ている。見せるためにあるが、見せすぎては興醒めだ」
エミールのような男にとって、ランジェリーは単なる装いではない。それは芸術であり、儀式であり、幻想の回廊だ。彼は決してそれに触れようとはしない。ただ、遠くから見つめ、語り、夢想するのだ。黒のシフォン、紅のサテン、あるいは透けるチュールに彼は詩神を見出す。
「君は知らないだろう」と彼は続ける。「ベージュのコルセットに刺繍された小さな鳥籠が、どれほど男性の心を騒がせるかを」
彼の趣味は常人には理解され難い。ランジェリーショップのショーウィンドウに立ち尽くし、まるでギャラリーの絵画を鑑賞するように時間を忘れる男。時には、ヴィクトリア朝のコルセットに歴史の憂いを感じ取り、時には、花弁のようなレースに女性の存在そのものへの讃歌を詠む。
現代の多くの男性が機能性や実用性に重きを置く中、エミールはひたすらに「意味のない美」を追い求める。彼にとって、ランジェリーとは存在の軽やかな嘘であり、そこにこそ真実が宿ると信じて疑わない。
「ランジェリーは、女性のためにあるんだ。でも、それを詩に変えるのは、我々の役目さ」
私はその日、エミールのグラスに注がれたリキュールの色を見つめながら、詩人の狂気と美意識の境界線について思いを巡らせた。現代において、彼のような男はもはや時代遅れかもしれない。それでも、彼の目に映るレースのひだには、私たちが忘れかけた「観るという行為の純粋さ」が確かにあった。







──クロード・ルフェーヴル(架空のフランス詩人)
パリ第六区、五月の雨の朝にて










