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写真家:大野真司氏の作品群を紹介してます。

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大野真司氏の作品には3カテゴリー合って、「旅行記」「人類愛」そして、「可視化された私小説」があると思ってます。 彼を知ったのは「旅行記」としての作品の印象深さであり、世界中の人たちを分け隔てなく記録しようとする「人類愛」を想わせる作品群。 そして、私にとってとっても興味深いのは「可視化された私小説」とも思われる、ここで載せてる作品群です。
この私小説の一番共感できるところは、”痛み”なのですね。 目の前にいるモデルとは一瞬の時は共有できても、遠い未来は共有できない・・という”宿命”であったり、切なさなのです。 この”勝手な記述”は私の妄想であり、何の根拠もありません。 だからといって、次回お会いした時にその真偽のほどを確認するつもりもありません。

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FBで載せられる画像にはいろいろと制限がありますから、作品の本当の素晴らしさは伝わりません。 そして、ここでは原画データを預かってますから、高画質で展示してます。


ここで載せてる一連の画像には、 写真家:大野真司氏の”愛”が感じ取れます。 この愛に関しては、踏み込んだコメントは控えましょう・・
この人の作品には、優しさがベースにあります、風景写真であっても。

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可視化された私小説――写真という名の内面の物語
写真という表現は、しばしば「瞬間を切り取るもの」として語られます。しかし、この写真家の作品に触れたとき、私たちはその定型的な理解を超えた何か――時間を超越し、心の奥底に語りかける物語性を感じ取ることができます。それはまさに、「可視化された私小説」とも呼べるものであり、カメラという装置を通して、自身の感覚や記憶、心象風景までも写し出すことに成功しています。
この作品群には、「上手に撮ろう」という技術的な虚栄心は感じられません。むしろ、それらの写真は驚くほど素直で、誠実で、装飾を拒むような潔さをまとっています。技巧を競うのではなく、己の感覚を中心に据え、その内側から湧き出る衝動に忠実であろうとする姿勢が、作品全体に貫かれています。その姿勢こそが、写真を単なる記録ではなく「作品」へと昇華させているのです。
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感覚の中に住まう写真
この写真家にとって、写真は「見せる」ためのものではなく、「感じる」ためのものなのでしょう。構図の整合性や光のバランスといった技術的な要素よりも、むしろその一瞬を通じて何を感じ、何を記録したかったのか――その内的な動機こそが、作品を動かす原動力となっています。まるで自分の心の奥を覗き込むような視線。見る者に媚びることなく、ただただ自分の感覚に忠実であろうとする態度。それが一枚一枚の写真に濃密に刻まれており、私たちはその静かな情熱に強く心を打たれるのです。
たとえば、雑踏の中にぽつんと立つモデルを捉えた一枚には、「孤独」や「静寂」といった感情が濃厚に漂っています。それは都市の喧騒を背景にしながらも、モデルの目線や姿勢、光の入り方などから、まるで観る者がその瞬間に立ち会っているかのような臨場感を呼び起こします。まさに、写真家自身の心象がそこに転写されているかのようです。
この画像は、右斜め前からフラッシュがたかれてますね、このモデルさんらしさを見事に捉えてます。

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モデルに人格を与えるという挑戦
この写真家が特異である点は、モデルを単なる“被写体”として扱わないという姿勢にあります。一般的なファッションフォトやポートレートにおいては、モデルは視覚的な美しさを提示するための存在にとどまることが多く、その人間性までは写し出されないことがほとんどです。しかし、この写真家の作品では、モデル一人ひとりに「人格」が与えられているのです。
カメラの向こうに立つモデルは、ただポーズをとる存在ではなく、感情を持ち、過去を背負い、ある物語を生きる“ひとりの人間”として、写真の中に存在しています。それは、写真家がそのモデルの内面に深く分け入り、その人自身の本質に迫ろうとする試みの成果なのでしょう。視覚的な“美”を越えた、“生”のにおい――それがこの作品の大きな魅力の一つです。
このような写真を撮るためには、シャッターを切る前に、長い時間と深い信頼関係の構築が必要だったことでしょう。モデルとの対話、空間との対話、そして何より自分自身との対話を通じて、ようやく浮かび上がる一枚の写真。それは決して量産されるものではなく、一期一会の真摯な記録です。
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「伝わる写真」と「作品のクオリティ」
写真において「伝えること」と「表現すること」は、しばしば相反するものとして語られます。表現を追求するあまり、受け手に伝わらない作品になることもあれば、伝えることを意識しすぎて表現が浅くなることもあります。しかし、この写真家はその両者を見事に融合させています。
観る者は、写真の中にある空気の揺らぎや、モデルのささやかな仕草、被写体を包む光のやわらかさに、言葉にならない感情を喚起されるのです。それは、「何を伝えたいのか」が理屈ではなく、感覚として直接伝わってくるからにほかなりません。ここには作為や演出を超えた、まさに“感応”とも呼ぶべき写真の力が宿っています。
こうした表現が生む“伝わる写真”は、他の写真家の作品とは一線を画しています。その差異は技術の優劣ではなく、むしろ“作品に対する誠実さ”と“被写体への眼差し”の違いにあります。この写真家の写真には、見る者の心にそっと寄り添い、語りかけてくるような温度があり、だからこそ作品としての「クオリティ」が際立っているのです。

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モデルはこのように”毅然”としてないと・・
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「このヌードは素晴らしい!」
こんなヌードが撮れたら?なぁ~と、ある種の憧れみたいなものがあって・・


一連の作品群には”自然体”であろうとする時空(への試み)をモデルとフォトグラファーが共有していることが分ります。



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写真の未来への提言
この写真家の作品は、写真というメディアがどこまで個人の内面に迫りうるか、どこまで感情や人格を写し取れるのかという問いに対する、一つの鮮やかな答えを提示しているように思います。技術や流行を追うのではなく、あくまで自分自身の内なる感覚を羅針盤として、モデルと共に新しい写真の可能性を切り開いていく――その創作姿勢は、多くのフォトグラファーにとって大きな示唆を与えることでしょう。
このような作品に出会えたことは、観る者としての幸運であり、同時に写真表現の未来を見つめる上での確かな希望でもあります。内面を映し出す鏡としての写真、その可能性をあらためて実感させてくれる、素晴らしい作品群に心から敬意を表したいと思います。


写真家:大野真司氏の作品集