<文> Syoudou Sawaguchi
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ハイデガーの「存在と無」は余りにも有名ですが、私も過去に何度か読みたいと願って翻訳者の異なる2,3種の訳本に挑戦してみたことがあるのですが、いかんせん、どうやっても読み通すことはできませんでした。それも半分以上ならまだしも、ほとんど最初の部分で諦めたものです。
とにかく難しい。日本語として訳されているのでしょうが、その日本語としての概念の連続がどうやっても理解できない。言葉が心の中に入ってこない。なんとかならないものかと途方に暮れて結局どうにもならないまま放棄してしまったものでした。
私たちはこうして生きています。生きているというこの場にあるのはどこまでも存在のみであって、死(あるいは無)はどこにもありません。もちろん死体はあります。けれど死体は死ではなく、死体という存在です。
私たちという複数ではなく、私という一人称を問題にするともっと焦点がクリアになると思います。
私はここにこうして生きています。そして生きている限り死んだことはないのですから、私はどこまでも存在しているのみであって、私のどこにも死は存在していないのです。
私の父と弟はけれど私より先に死んでしまいました。しかし、父と弟は私でなく他者なのです。どんなに深い濃いつながりがあっても、それはしかしどこまでも私以外の他者の死なのです。
私は死んでません。父と弟が死に、大災害で何万人の人が死のうとそれはどこまでも私自身の死ではなく、私以外の他者の死に過ぎません。
私は自分が死なないと言っているのではありません。諸行無常は仏教の教えの根本です。どんな生き物、生き物ではない物でも形を変えずに永遠にこの世にとどまることは不可能です。それらは目には見えなくとも日々、瞬瞬刻々、変化し続け、そして生まれたからには必ず死ぬというのが大原則であって、どんな人であっても、例えばお釈迦さまであっても死を免れることはできない、というのが仏教の教えであり、この世の常識でもあるでしょう。
誰一人としてこの世に生まれたからには必ず死ぬというこの例外のない真理の下では、死というこの冷厳な事実を直視して目をそらさないで見つめ続ける、という強固な意志もまた要求されるのかもしれませんが、しかしどこかの国の諺のように「死と太陽を見つめることはできない」というのも一面の真実なのかもしれません。
そういう諸行無常の教えを無視して私は自分が死なないといっているのではなくて、いまここのどこにも死はないといっているのです。
現在世界の各地でばたばたと伝染病で人が死んでいっています。しかしそれらは死ではないのです。死んでしまった人はその瞬間に死体という一つの存在者になるのであって、死そのもではないのです。死はないのです。どこまでも、死はないのです。無いから死なのです。
なぜならこうして私は生きているからです。
人の死に対して同情と畏敬の念を持って接することこそ、人間としての倫理であり道徳でもあるでしょう。親しい人の死は後に残された人の心に穴を開け、それは決して完全にふさがることはありません。だからこそ私たちは涙を以てその穴を埋めようとするのですが、しかし心の穴はどんなに涙を流しても埋まることはないのです。
泣いている限り私は生きています。
