Makina Photo 量子力学と人間の意識—「存在」の不確定性

「再認識される人間の存在」— AI時代における芸術的視座

かつてルネサンスの時代、人間の尊厳が再発見され、「人間中心」の思想が花開いた。それから数百年を経た今日、私たちは再び「人とは何か」という根源的な問いに直面している。AIが台頭し、人間の能力が機械によってシミュレートされる時代において、「人間らしさ」はどこへ向かうのだろうか。

今、芸術はこの問いに対し、極めて鋭敏な感性で応えようとしている。AIによる創作が日常的になり、量子力学の不確定性と意識の問題が絡み合う世界において、人間の存在は再び「素朴に、自然に、在りのままであること」へと回帰しようとしているのではないか。あるいは、私たちはこの流れに抗えず、人間の存在が限りなく希薄になっていく未来を迎えるのかもしれない。

量子力学と人間の意識—「存在」の不確定性

20世紀初頭、量子力学の誕生は世界の見方を根本から変えた。シュレーディンガーの猫のパラドックスに象徴されるように、観測されることで現実が確定するという考え方は、意識の介在なしには物理世界すら定まらないことを示唆する。ここで重要なのは、人間の意識が「存在」を決定する一因となる可能性だ。

もしもAIが高度に進化し、自己を意識するようになった場合、彼らは「観測者」となりうるのか?あるいは、人間の意識のように「世界を存在せしめる力」を持ちうるのか?この問いは、単なる科学的議論にとどまらず、哲学や宗教の領域へと接近していく。

宗教と芸術—再認識される「人間らしさ」

宗教の世界では、人間の「魂」や「精神」がAIに代替されえないものとして語られることが多い。しかし、AIが人間の知性を模倣し、さらには人間の感情までもシミュレートできるとすれば、「人間の存在の本質」はどこにあるのか?この問いこそが、芸術が取り組むべきテーマになりつつある。

過去の芸術家たちは、人間の「在りのままの姿」を描くことで、人間の尊厳や美を表現してきた。印象派の画家たちは、光と影の移ろいの中に生命の鼓動を見出し、ゴッホは荒々しい筆致の中に感情の爆発を刻みつけた。現代においても、芸術が「人間らしさ」の再認識を促す役割を果たすとすれば、それはAIが模倣し得ない「存在の痕跡」を描き出すことにあるのではないか。

消えゆく存在か、再認識される存在か

この世界が量子力学的な不確定性の中にあるとするならば、人間の「希薄化」と「再認識」は、二つの可能性として同時に存在しているのかもしれない。AIによる効率的な社会が進む中で、人間の存在が「単なるデータの集合」として扱われる未来もあれば、逆に「機械にはない曖昧さや感性」が価値を持つ時代が訪れる可能性もある。

芸術は、その岐路に立つ私たちに問いかける。「あなたは何を見ているのか」「あなたは何を感じるのか」「あなたはそこにいるのか」。

私たちは今、AIによって自身の存在を試されているのかもしれない。しかし、かつてルネサンスがそうであったように、「人間とは何か」を問い直す時こそ、新たな文化が生まれる契機となる。

AIが創り出す「精巧で計算された美」に対して、人間は「素朴に、自然に、在りのままであること」の美しさを再び見出すのだろうか。それとも、AIの進化とともに、私たちの存在は溶けるように消えていくのだろうか。

その答えは、今、私たちが何を選び取るかにかかっている。

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「文明人の作法」

フェミニズムおよび「見る視線」への批判

ワンピースからランジェリーまで・・

ラカン的鏡像論:ラカンは幼児が鏡像を通じて自分自身を認識する「鏡像段階 (stadium du miroir)」を論じました。鏡像は自己の統一的なイメージを提供する一方で、いわば幻想でもあり、その背後にはズレや不統一性があります。この観点から、鏡を用いたヌード撮影においても、被写体は鏡像を介して自己認識を引き寄せつつ、同時にそのズレに向き合うことになります。

撮影が進むにつれ、アンリは奇妙な感覚に襲われ始めた。カメラに映るイザベルの姿が、撮影のたびに微妙に変わっているのだ。顔の輪郭、髪の流れ、瞳の輝き――そのすべてが、撮影のたびにより美しく、より妖しく変化しているように見えた。

「これはどういうことだ?」とアンリが問いかけると、イザベルは微笑を浮かべ、曖昧な答えを返すだけだった。

「美とは、観る者の心を映す鏡よ。あなたの心が私を創り上げているの。」

アンリはその言葉に困惑しながらも撮影を続けた。だが、撮影が進むほどに、彼女の姿が現実離れしていくように感じられた。

フェミニズムおよび「見る視線」への批判:フェミニスト批評は、ヌード表現を「男性視線 (male gaze)」の制度的産物として位置づけ、女性被写体は常に他者の視線対象と化すという観点を強調してきました。鏡を介在させた撮影は、この視線関係をさらに複雑化させ得ます。鏡で自己を見る視線と、撮影者・鑑賞者の視線が交錯するなかで、女性被写体は単なる他者の視線対象ではなく、視線を引き受けつつ反転・操作する能動性を獲得できる可能性もあるからです。

鏡像とジャンルの脱構築:鏡を媒介化する構図は、写真的ジャンルの枠(肖像、ヌード、風景など)を揺らがせます。鏡で反射された像が実像と重なり、あるいはズレを呈することで、写真的リアリズムやナチュラルさの幻想を疑わせます。こうした手法は、現代美術/写真の脱ジャンル志向と合奏します。

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きつい顔もいいね!

フランスの写真家サラ・ムーンの幻想的な光の操作

フランスの写真家サラ・ムーンの幻想的な光の操作

サラ・ムーン(Sarah Moon)は、1941年にフランスで生まれ、モデルとしての活動を経たのち、1970年代より写真家として本格的にキャリアを築いた女性アーティストである。彼女はファッション写真を出発点としながらも、その枠を大きく超えて、詩的で幻想的な視覚表現を追求してきた。その作風はしばしば「夢のよう」「時間の儚さ」「ノスタルジック」といった言葉で語られるが、その核心にあるのが、彼女特有の「光の操作」である。本稿では、ムーンの写真における光の使い方に焦点を当て、その幻想性を読み解いていく。

光と影のあわいにある世界

サラ・ムーンの写真における最大の特徴の一つは、明確な輪郭を拒む「曖昧さ」である。彼女の作品には、シャープなラインや高コントラストの明暗はほとんど見られない。代わりに、霧がかったような柔らかい光、どこからともなく滲み出るような輝きが画面全体を包む。この光の質感こそが、彼女の作品に「夢」と「現実」の境界を溶かすような幻想性を与えている。

ムーンは自然光やソフトフォーカスのレンズを用いて、被写体の輪郭をぼかし、背景との境界を曖昧にする。これにより、被写体は単なる「物体」から解き放たれ、見る者の内面に入り込む「記憶」や「感情」として立ち上がってくる。特に逆光や斜光を巧みに使い、被写体のシルエットを浮かび上がらせる手法は、彼女独自の「光による詩作」とも言える。

Traveler of Time Naked Truth

Think of her feelings, Tamaki

2016年から現在に至るまで、7年間の記録を載せている。 記録というより、私の中の記憶が蘇るような、並びの展示になっている。 model : Tamaki は主にフォトモデルとして、時には女優として、様々な分野で活躍されている。 私は、彼女を撮影する中で、多くのことを学ばせていただいたこともあり、年齢的には私よりずっと若いが、”先輩”としてリスペクトしている。

西洋の中世の絵画のような・・

クロッキー

model : Yu

・・

ここからはmodel : tef

model : tef

これまで、アートに関しては習ったこともないので、上手いか下手かは分からないし、自分の感覚で治まっていれば、それで十分と思っている。 目が覚えたように描いているだけ・・

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Tetsuro Higashi Photograph presence

撮影のほとんどはスタジオ内ですが、6畳程度の狭い空間で撮ることもあります。 狭ければ、必然的に臨場感は生まれます。 このモデルさんとは5度目くらいの撮影になりますが、友情以上の信頼関係があるようです。 えてして、「作品創り」とは”戦いの場”ともなりうるのですが、この人とは”運命共同体”的な和やかな雰囲気の中で進められます。

Tetsuro Higashi Photograph silence

Tetsuro Higashi Photograph Nude Body

Nude Body 撮影 model:Anri Mone

このような作品が「作品撮り」としては、理想の形の一つなのだろう。 浮き上がる骨格と肉体の持つボリューム感が絶妙なのかもしれない。 

Tetsuro Higashi Photograph collaboration

”Gifted” 天から授かった能力を持つ子供たち

Tetsuro Higashi Photograph digital

僕にとっては、とっても感慨深い作品群なのですが・・・僕が初めて撮ったヌードじゃないかと記憶してます。 こうして見ていると、夢中で撮っていることが分ります。 こんな機会はめったになかったわけですから、それこそ貴重な”体験”だったわけですね。 これを撮った奴、なかなかいいアングル出しているじゃん・・みたいな感じがあって、今よりもむしろ、上手いじゃんか!みたいな・・ デジカメで撮ってる。

若さゆえ・・「初めてのヌード撮影」

*Risako : モデルは女優

日本の女優 : Risako 。 発展途上であるとは思いますが、いつか、名の知られた役者になるとことでしょう。

若さだけではなく、ピュアーな印象があります。 役者の卵だけあって、「花魁」を役作りしてますね。 江戸時代では、こんな感じだったかもしれません。 そんな印象を持たせる「花魁」です。 この画像を見ても分かる通り、目の輝きが写り込んでます。それって、少ないのですよ、ここで特集してるモデルの中ではこのRisakoさんだけです。

この女優さんはヘアーをなくしてます。 「ヘアー、hair 」に関しては別のページでも書いてますが・・ 今の若い女性の30%位は”ヘアーなし”ですね。 これまで多くの女性ヌードを撮ってきた経験から言ってます。 ある程度の処理をしている人(処理しなくとも、その必要性がない人も含む)が40%位、全く手つかずの人が30%位でしょうか。 ヘアーに関しては様々で・・私はヌードの女性を50人位は撮っているかもしれませんが、最初からない人がいましたし、あってもかなり少ない人いました。 3、4人に1人はかなり濃い人もいます(私の頭の毛に譲ってもらいたいくらいの人も・・)。 私個人の希望としては、自然のまま、手入れをしないままが好きですね、濃かろうが薄かろうが。 ヘアーにも、それぞれの個性があって良いと思いますから。

ヘアーをなくしてしまうと、アングルによっては性器が写ってしまうので、撮影が難しくなることもあります(が、そのまま写ってしまって構わない場合も全然あります)。 また、デッサン会やクロッキー会でのモデルは出来ないでしょう(性器が見えるという理由で)。  

このような画像というのは、狙って出来るというよりも、偶然性によるところが大きく、300枚撮って1枚あれば、ラッキーというところ。

モノクロにするにも、何色を基準色にするか?で画像のニュアンスはかわってくる。 編集ソフトは使いようによっては無限な編集ができるのであるが、その編集ばかりに頼っていると、嘘っぽい画像ばかりになってしまう。 インスタなんかでも、”流行”の編集画像が溢れてますが、消費文化と同じで、過ぎればただの写真になってしまいます。

上の一枚目の作品は”僕の代表作”の一枚になってます。 日本人にとっての「能面」は”一つの顔の中に様々な表情を持つ”顔という意味で、不思議でかつ不気味な印象もあります。 それでは、西洋の方々の受ける印象は?というと、仮面舞踏会の延長のような捉え方なのかな・・と思われます。 去年の末、僕の作品を扱うフランスのアートディレクターへ能面をお土産にもって行ったのですが、ピンと来てなかったようです。 

スライドショー内にも載せてますが、僕が特にお気に入りの画像をここに載せます。 この画像位になると、グローバルに通用すると思ってる。 何が違うか?というと、偶然の賜物とも言えるのだけれど、顔の表情、肌の色、着物柄などが見事に怪しく輝いてます。 映り込みにきわどさはありますが、理屈抜きに魅了するものがあります・・自分の作品を褒めるのは変かもしれませんが、点数を付ければ105点位かな。

やっぱり、品性と知性がそのまま画像に写り込んでます。 編集(レタッチ)すれば、画像はどうにでもなると考える人もいそうですが、この「品性」と「知性」だけは、編集ではどうにもなりません。 また、カメラワークでどうにかなると考えそうですが、少なくとも、僕の”腕”では、どうにもなりません。

モデルは女優