ポストで撮影「むとう しょうへい作品」

ポストで撮影した「むとう しょうへい作品」

額のガラスに反射した室内が写り込んだ。。

ちょっと面白い画像。

8月1日から5日まで、

ドラールギャラリーで個展があるそうです。

詳細は後ほどお伝えしますので、

是非、ご来場ください。

子どもにとっての「教育」とは?

子どもにとっての「教育」

子どもにとっての教育とは、いったい何なのだろう。
そんなことを、ここしばらく考えています。

理屈で考えれば、おそらく多くの人がこう言うでしょう。
――「社会に適応していくための準備の場」だと。
それは一理あるし、否定する人も少ないはずです。

でも、本当にそれだけでいいのだろうか?
ときどき、ふと疑問に思うのです。

今、私はある人のお手伝いをしています。
その人は「自由に、楽しく学べる空間――つまり塾のような場所」を立ち上げようとしています。
私はその構想に惹かれて、運営のアドバイスや、仕組みづくりの相談に乗っています。

どうやって運営するか、どう地域に認知されるか、そういった実務的な話は比較的答えが出やすい。
でも、「そもそも自由に楽しく学べる空間とは、何なのか?」と考え始めると、話は急に難しくなります。

結局のところ、それは主催者自身が手探りで見つけていくしかない。
私はそう思っています。

「社会にどう適応していくかを学ぶ」
これは教育の一つの方向性かもしれません。
けれども、そもそもその「社会」が、これからどうなっていくのかが分からないのです。

今の子どもたちが大人になる頃、
どんな社会が待っているのか――誰にも予測がつかない。
ましてやAIがますます進化し、あらゆる分野で人間を超えていく現実を目の前にすると、
「適応すればいい」という言葉には、どこか薄っぺらさを感じてしまいます。

偏差値教育が時代に合わなくなってきていることは、
多くの親が気づいています。

でも、「じゃあ、どんな教育がいいのか?」と聞かれると、誰も明確な答えを持っていない。
その結果、結局は「とりあえず偏差値の高い学校に入れておこう」となる。
分からないからこその「無難な選択」。これは決して責められることではないのですが、やっぱり少し虚しい。

そして思うのです。
「社会に適応する」という考え方そのものが、もしかしたら、もう時代に合っていないのではないかと。

この言い方では、「社会」が主体で、「人」がその枠に合わせにいく構図になってしまう。
人間が、自分の頭と心で考えて、行動する存在であるはずなのに、
「社会に合わせること」がゴールになってしまったら、本末転倒なのではないかと感じます。

AIがどんどん進化する中で、
人間だけに残された領域って何だろう?
と考えることがあります。

たぶん、0と1の間にあるもの――
つまり、数値化できない、形にならない、けれど確かに存在している世界。
感情や直感、想像力や創造力。
合理的ではないけれど、なぜか惹かれてしまうもの。
そういった曖昧さや不確かさの中に、人間らしさの「最後の砦」があるように思うのです。

そう考えると、子どもにとっての教育とは、
社会に適応することを教えるのではなく、
「社会がどうであれ、自分で考えて生きる力を育てること」ではないかと思えてきます。

それはすぐに成果が出るようなものではないし、
一つの正解があるわけでもありません。
けれど、問いを問いのままに抱え続ける力こそが、これからの時代を生きる子どもたちにとって、何より大切なのではないでしょうか。

「自由に、楽しく学べる空間」とは、
そうした問いを恐れずに抱え、
正解を急がず、自分で見つけていく場所なのかもしれません。

そして私たち大人ができることは、
子どもたちのそばで一緒に悩み、考え、問い続けること。
それこそが、教育という営みの本質なのかもしれませんね。

<参考>ちかちゃんの脳内ワチャワチャ会議

見たいところだけを切り抜いて撮る

「見たいところだけを切り抜いて撮る」というのは

写真の基本中の基本だと思ってましたが、

・・そう思ってシャッター切る人って、かなり少数派らしい。