
Movie & Jazz



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フォトグラファーを見下したような目線がいいでしょ
モデルというのは、これくらい”凛”としていた方が良いのです
そう、目の前にいる写真家も カメラの向こうの(この画像を見る)者も
まとめて見下してください
それくらいで、ちょうどよい写真が撮れる

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彼女と撮影を共にしたのは20回以上に及ぶだろう
いつも書いているように、ヌードを目の前にしても
ヌード自体は見ていない 映り込みばかり見ている
こうして、編集しながら初めて、彼女の肉体の迫力を知ることになる
撮影は、私がイメージしたものに沿って、進めていく
背景やライティングなどの”環境”は私が全て整えるが、
ポージングなどは全て彼女任せ
一回だけ指示を出したことがある
「カメラを意識しないように・・」 それだけですね

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ルイーズは、足元の砂利を踏みしめてスタジオの扉を押し開けた。朝の冷たい光が彼女の肩越しに差し込む。白いシャツと黒いパンツ、それに彼女自身の威厳が、部屋を占拠した。
部屋には、古びた三脚にセットされたライカが静かに佇んでいる。撮影の準備は整っているようだが、カメラマンはまだ不安定な手つきでレンズを調整している。彼の動きには、経験と緊張が混在していた。
「おはよう」とルイーズが低い声で言った。その声はどこか命令的で、彼女が持つ自信をそのまま伝えていた。
カメラマンは顔を上げたが、彼女の目を見ないようにした。その目は冷たく、鋭かった。彼は経験してきたどのモデルとも違う何かを感じ取った。だが、彼にはそれを言葉にする勇気はなかった。
「準備はいい?」彼女はそう尋ねながらも、答えを待たなかった。ルイーズは中央に立ち、部屋を測るように視線を走らせた。次に、カメラの向こうに立つ男をじっと見た。その視線は鋭く、彼の緊張を深めた。
「どういうポーズがいいですか?」と彼はか細い声で尋ねた。
ルイーズは笑った。その笑いは軽蔑とも取れるが、彼女自身の自由を表していた。「私にポーズを指示するつもり?そのカメラが私を捉えるに値するかどうかもわからないのに?」
カメラマンは一瞬、何も言えなかった。そして、彼女の言葉が鋭い刃のように自分の胸を切り裂いていくのを感じた。
「あなたは撮るだけでいい。私が動く。」
彼女はそう言うと、足を軽く広げ、首をかしげた。その動きには計算がなかったが、確かな美しさがあった。肩が緊張を解き放ち、目はカメラを挑発するように見つめた。彼女はレンズを通して、彼に自分の世界を見せていた。
シャッターが音を立てて切られるたびに、ルイーズのプライドがその場を支配した。彼女はただのモデルではなかった。彼女はその場を統括する力そのものだった。
一瞬、カメラマンは感じた。自分が何を捉えたのか、そして何を捉えられなかったのか。その瞬間、彼は彼女の目に映る自身を見たような気がした。
撮影が終わり、ルイーズはジャケットを羽織り直した。彼女は彼に軽く会釈をしたが、その目はまだ彼を見下ろしていた。
「また呼んで。あなたが私を撮る準備ができたときにね。」
彼女はそう言うと、踵を返してスタジオを去った。扉が閉まる音が静かに響き、部屋にはカメラマンと彼の仕事だけが残された。
彼女の不在の中で、彼はようやく悟ったのだろう。彼が撮ったのは、ただの写真ではない。彼が捉えたのは、彼女の強さと、それに向き合う自分自身の弱さだった。


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川端康成の代表的な短編集『掌の小説』は、その名の通り、「掌に乗るほどの短さ」の物語が連なった作品群である。多くは数ページ、時には数行という長さで完結するそれらの作品には、驚くほどの密度と余韻が込められている。長編で描かれるような大きな起伏や背景はほとんどないが、読み手の心に残るのはむしろその簡潔さと沈黙のような文体である。
「掌の小説」には、恋愛、死、孤独、記憶、美など、川端が生涯を通じて探求したテーマがぎゅっと詰め込まれている。しかし、それらは明確なストーリーラインを持たず、しばしば断片的で、まるで夢の一場面のように始まり、静かに終わる。そこに通底するのは、日本的な「余白の美」だ。語られなかったこと、描かれなかった背景にこそ想像が広がる。読者はただ受け取るのではなく、行間に入り込むことで、物語のもう一つの面を自らの中でつくり出すことになる。

たとえば、ある作品では、失われた恋人の面影を追う男の姿が数段の文章で描かれ、過去と現在の境が曖昧になっていく。別の作品では、死者の声が語り手にささやきかける幻想的な瞬間が、静かな日常の中に溶け込む。これらはすべて、現実と非現実、生と死、理性と感情の境界をあいまいにし、読者に深い余韻を残す。
川端は「美は瞬間に宿る」と考えた作家であり、「掌の小説」はその信念をもっとも純粋に表現した形式といえるだろう。短くとも、そこに描かれた人物たちは生きており、その一瞬の心の動きが、読む者の心にも波紋のように広がる。まさに、掌の中に小さな宇宙を閉じ込めたかのようだ。
現代のスピード社会において、「短さ」は情報の圧縮を意味することが多い。しかし、川端の「短さ」は、むしろ時間を止め、内面に沈潜していく入り口となっている。読むたびに異なる解釈が生まれ、その曖昧さこそが、文学の豊かさを教えてくれる。
「掌の小説」は、川端康成という作家の美意識と死生観、そして日本文学の静けさと深みを体現した稀有な作品集である。その小さな掌の中には、広大な精神の風景が広がっている。
フォトエッセイ「Pat Metheny – And I Love Her」
フォトエッセイ「雨の夕暮れ野分 – 夏目漱石」
『セロ弾きのゴーシュ』を読んで
宮沢賢治の代表作の一つ『セロ弾きのゴーシュ』は、一人の不器用な音楽家が動物たちとの不思議な交流を通して成長していく物語である。舞台は田舎町の小さな楽団。チェロ(作中では「セロ」)を弾くゴーシュは、仲間の中で一番下手だと指揮者から叱られ、いつも自信をなくしていた。だが、夜になると家に帰り、必死に練習を重ねる。そこへ次々と訪れるのが、猫やカッコウ、小さな子どもを連れたタヌキ、そして最後に現れる野ねずみたちである。彼らは一見、ゴーシュの練習を邪魔するように見えるが、実は彼に音楽の本当の意味を気づかせる存在だった。
この物語の魅力は、動物たちの訪問を通してゴーシュの心が少しずつ変化していく過程にある。最初、彼は猫に対して怒り、乱暴にチェロを弾く。しかし、その音に反応して猫が踊り出すと、ゴーシュ自身も知らぬ間に音に力がこもり、感情が表現されていく。次に訪れたカッコウやタヌキとのやりとりでも、ゴーシュは相手の求める音を理解しようとしながら、自分の演奏を見つめ直していく。動物たちはまるで自然そのものの声を代弁しており、彼の演奏が単なる技術ではなく、生命の調和の中にあることを示しているようだ。
そして、クライマックスとなる野ねずみの親子との場面では、ゴーシュの心の成長がはっきりと表れる。病気の子ねずみのために、ゴーシュは優しく子守唄を弾く。その音色には、以前のような苛立ちや自己嫌悪はない。純粋に「誰かのために」音を奏でるという喜びが満ちている。その姿こそ、音楽の本質をつかんだ瞬間であり、ゴーシュはこのとき初めて真の音楽家になったのだと思う。
翌日の演奏会で、彼のセロは見違えるように美しく響く。観客を魅了したその音には、動物たちから学んだ優しさや自然との調和が宿っている。指揮者に褒められたとき、ゴーシュはただ静かに微笑む。その表情には、もはや「下手なセロ弾き」の影はない。
『セロ弾きのゴーシュ』は、努力と成長の物語であると同時に、人と自然、そして音楽との深いつながりを描いた作品でもある。賢治はこの物語を通して、「本当の芸術とは、人を感動させる技術ではなく、心を通わせる行為なのだ」と語っているように思う。私たちもまた、ゴーシュのように不器用でも誠実に努力し、他者の声に耳を傾けながら成長していくことが大切なのだろう。



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