
一、
着物が肩をすべり落ちるとき、
布はただ落下しているのではない。
道元の言う「身心脱落」は、
脱ぎ捨てることではなく、
いまここへ落ちていく出来事そのものだ。
布が落ち、肌が現れる瞬間、
身体は世界に一度、沈黙で返事をする。
二、
だが肌は、ただの肌ではない。
その上には刺青がある。
刺青は記号ではなく、
時間が身体に刻んだ「逆方向の衣服」だ。
着物が外へ流れ、
刺青が内から浮かび上がる。
外へ逃れながら、内へ縛られる。
その矛盾こそが、身体の詩だ。
三、
九鬼周造の「いき」は、
未完と余白を愛する精神である。
着流しの衣は、
規範を微妙に外しながら、
規範の美を裏側から照らす。
刺青の色は、
その「いき」をさらに深く沈ませる影。
影があるから、光が立つのではない。
影こそが光の仕方を決めるのだ。
四、
刺青の線は、
日本の古層に沈む意匠を思わせながら、
しかしその意味を語らない。
意味を拒む線は、
むしろ身体そのものの沈黙を守る。
着物が風のように揺れても、
刺青は揺れない。
揺れなさの中に、
深い“ここではないどこか”が潜んでいる。
五、
裸身は露わになるほど、
むしろ何かを隠し始める。
刺青は、
その隠蔽のためにあるのではなく、
隠蔽を一層深いところから支える。
見える線の奥に、
見えない意志が潜む。
見えない意志の奥に、
なお語られぬ沈黙が棲む。
六、
着流しの着物は、
衣でありながら衣の責務を逃れ、
刺青は、
肌でありながら肌の沈黙からはみ出す。
この二つの“はみ出し”が交わる場所に、
裸身は成立する。
それは裸体ではない。
世界と身体の境界が、
ひととき曖昧になるための形である。
七、
道元は「仏道をならふといふは、
自己をならふなり」と言った。
自己とは、
この刺青の線と、
着物の落ちる軌跡のどこかに
一瞬だけ触れ得るものなのかもしれない。
しかし触れるたびに、
それは静かに後退し、
ただ余白だけが残る。
八、
その余白こそ、
九鬼周造の「いき」が生きる場所。
未完であること、
決して閉じられないこと、
完成に向かわず、
ただ“在る”というほどの在り方。
刺青と着流しの衣は、
その未完のための二つの異なる影だ。
九、
だからこそ――
着流しの和装と刺青と裸身が交わるその瞬間、
美は形として成立するのではなく、
ただ「そこに開ける」だけなのだ。
形はつくられず、
意味は与えられず、
ただひとつの境界が
かすかに震えている。
美は、
その震えの中にだけ、
そっと生まれる。
