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artist model : keiko
—着流しの和装と裸身が交差する場所についての断章—**
着物を着流すという行為は、もともと“形”を尊ぶ衣服の規律から、ひととき逸脱する身振りである。
襟は正されず、帯は結ばれず、布は重力に従ってただ静かに落ちる。
だが、その緩やかさの中にこそ、規律は逆説的に際立つ。
決まりがあるからこそ、決まりから外れることが意味を持つのだ。
そこに、裸身が差し挟まる。
だがそれは露出ではなく、衣と身体の境界がいったん宙吊りにされる瞬間である。
着物の内側にあるべき“肌”が、衣の外側に滑り出し、しかし依然として衣の影響圏から逃れない。
この奇妙な状態は、哲学的に言えば、
身体が「衣服という記号に属しながら、なおその外に立とうとする」緊張状態だ。
和装は、本来「隠す」文化の結晶である。
布の重なりは、肌を覆うという機能の他に、
社会的役割・身分・季節・時間といった“意味の層”を幾重にも重ねる。
その衣が着流されるとは、これらの意味が一度、
“ほつれ”のように緩み、
身体の輪郭が世界の象徴性から解放されるということだ。
しかし裸身は、完全には自由にならない。
むしろ着物という「ほつれた規範」の影を引きずったまま、
あいまいな境界の上に立つ。
身体はここで、隠蔽と開示の二項を同時に生きる存在となる。
着流しの着物は、
衣服でありながら衣服として機能しない。
裸身は、身体でありながら“完全な露わ”ではない。
どちらも「未完」の状態に置かれ、
その未完こそが美学的緊張を生む。
ハイデガーが言うところの〈開け〉は、
物の本質が自らの姿を世界の前に差し出すための空所だが、
この着物と身体のすれ違う空間こそ、まさにその〈開け〉である。
着物が外へ流れるほど、
身体は逆に内側へ沈み込むように感じられる。
肉体が露出しているにもかかわらず、
そこにはむしろ“深い隠蔽”が現れる。
衣は脱がれればただの布だが、
着流されるとき、
それは**身体と世界の間に生まれる“未決定の余白”**となる。
その余白に立つ裸身は、
もはや個体の肉体ではなく、
意味を失いかけた記号でもなく、
ただ“存在するという出来事の断面”に変わる。
裸身は衣を失いながら、
衣からは逃れない。
着物は形式を失いながら、
形式の影をまとい続ける。
その二つが交わる瞬間、
身体はただの裸体でも、
ただの衣でもない第三の状態へと移行する。
そこでは、美とは形の優劣ではなく、
境界が境界であることをやめかける、その瞬間の揺らぎに宿る。
着流す和装と裸身の関係は、
美を固定化しないための永遠の未整理であり、
世界と個人のあいだに引かれた細い線が
かすかに震える、その音なのだ。

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