「欲しいか」ではなく、「どう在るのか」「どう共に在るのか」

「官能の場を離れ、倫理と存在の問題へと静かに移行する」という変化は、断絶ではなく、重心の移動として起こる。欲望が突然否定されるのではない。ただ、欲望が向かっていた場所が、いつのまにか別の深度へと沈んでいく。

官能の場では、身体は熱を帯び、近さによって意味を得る。触れられる可能性、応答の予感、物語の始まり。そこでは「いま、ここ」に集中することがすべてだった。しかし、視線がある瞬間ふと立ち止まるとき、身体は熱を失うのではなく、距離を獲得する。近づくことよりも、隔たりが輪郭を与え始める。

この距離の中で、身体は出来事になる。快楽の約束ではなく、「ここに他者がいる」という事実そのものが、静かな重さをもって迫ってくる。何も語らない身体、応じない視線、身振りの中断。それらは誘惑ではなく、問いとして立ち上がる。その問いは、「欲しいか」ではなく、「どう在るのか」「どう共に在るのか」という形をとる。

文学的に言えば、それは叙情から省略への移行に似ている。多くを語らない文が、かえって存在の密度を高めるように、身体もまた説明を失うことで、単なる感覚の対象ではいられなくなる。沈黙は空白ではなく、読む者に倫理を要請する余白となる。

このとき、見る者は主体のままでいることが難しくなる。視線は支配ではなく、逡巡を帯びる。触れたい衝動は、「触れてよいのか」という自問に変わる。そこに生まれるのは、欲望の否定ではなく、欲望を引き受けたうえでのためらいだ。そのためらいこそが、倫理の最初の身振りなのかもしれない。

官能の場を離れるとは、身体が美しさを失うことではない。むしろ、美しさが快楽に回収されなくなることだ。身体は鑑賞されながらも消費されず、意味づけされながらも完結しない。そうして残された未完のままの存在が、見る者の思考を静かに長引かせる。

この移行は劇的ではない。叫びも断罪もない。ただ、視線の速度が落ち、言葉が慎重になり、時間が深くなる。その深さの中で、身体は官能の岸辺を離れ、存在として、他者として、私たちの前に留まり続ける。

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Tetsuro Higashi

I was born and brought up in Tokyo Japan. Now I teach mathematics . At age 20 I took up painting. I took up taking photos before 5 years. I have learned taking photos by myself . I grew up while watching ukiyo-e and have learned a lot from Sandro Botticelli , Pablo Picasso. Studying works of Rembrandt Hamensz . Van Rijn, I make up the light and shadow. * INTERNATIONAL PHOTO EXPO 2015 / 26 February ~ 31 March Piramid Sanat Istanbul, Turkey * World Contemporary Art 2015 Nobember Piramid Sanat Istanbul, Turkey * Festival Europeen de la Photo de Nu 06 ~ 16 May 2016 Solo exposition at palais de l archeveche arles, France *2016 Photo Beijing 13~26th October *Sponsored by Tetsuya Fukui 23 February - 02 March 2019 Cafe & Bar Reverse in Ginza,Tokyo,Japan *Salon de la Photo de Paris 8th – 10th – 11th 2019 directed by Rachel Hardouin *Photo Expo Setagaya April 2020 in Galerie #1317 *Exhibition NAKED 2020 in Himeji    Produce : Akiko Shinmura      Event Organizer : Audience Aresorate December 1th ~ 14th  2020

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