手作りいかだで多摩川かわくだり

明日――いや、正確には今日の昼頃、多摩川でちょっとユニークな催しが行われる。

手作りのいかだに乗り、川を下るというタイムレース。
参加するのは、大人3名と子ども2名からなる「クルー」10組。
コースは、狛江市の多摩川沿い・五本松から、小田急線の和泉多摩川駅付近までの約1400メートル。

このイベントに出場するクルーのひとつを率いるのは、仙川駅近くにある「POSTO」の運営者だ。
POSTOはアートスペースであると同時に、子どもたちに自由な学びの場を提供している場所。
いかだ作りも、参加する子どもたち自身がこの場所で取り組んできたという。

これらの活動からは、「これからの教育とはどうあるべきか」という問いへの、ひとつの実践的な答えが見えてくる。
活字で学ぶのではなく、身体を使って経験すること――それが、POSTOの運営者が意図していることのようだ。

川の流れを土手から眺めるのと、実際にいかだに乗って川を下るのとでは、まったく異なる体験になる。
いかだの上から見る対岸の景色は、それまでとはまるで違って見えるはずだ。

活字から得られるのは、知識にすぎない。
しかし体験から学ぶことは、ただの知識では終わらない。
それは、生きる力の源となる「好奇心」を育ててくれる。

こうして、「学ぶこと」と「生きること」とのあいだにあった境界線が、少しずつなくなっていくのだろう。このような体験を通して、一人ひとりの子だもたちの最適化(好きな言葉じゃないが)が図られていくようなに思う。

参政党って、どうなの?

党結成から現在に至るまで・・

いろいろあって、突っ込みどころもあるけど

党首の演説はずば抜けて上手いね、説得力がある。

ピュアーな印象が若年層にも受けるんだろうね。

保守政党の多くはアメリカべったりなんだけど

”日本ファースト”と言ってるように

戦後のアメリカ依存から距離を置いて

真の意味での自主独立を唱えてる。

国家主権と国民主権ってのは相反することだけど、

そこを同時に成り立つ!と主張しているところが興味深いかな。

わが身を正すためにも、選挙に行きましょう!

“佳境”なんて言ったら叱られるかな・・

三連休の中日の選挙日とは言え、投票率上がりそうだね。

増税派と減税派の対立構造になってるけど、

自民と立憲の大連立なんてことになって、増税に走っちゃうと、

国民の怒りは爆発するかもね。

いろんな首相見てきたけど、

ここまで、醜態晒した人は初めてだね。

アートが自画像であるのと同じで

我々国民が選んだんだんから

”あの醜態”は鏡の中の自分を観ていると思うことだね、

SNS上では、他責的な罵倒が飛び交っているけど、

先ずは、わが身を正すためにも、選挙に行きましょう!

ポストで撮影「むとう しょうへい作品」

ポストで撮影した「むとう しょうへい作品」

額のガラスに反射した室内が写り込んだ。。

ちょっと面白い画像。

8月1日から5日まで、

ドラールギャラリーで個展があるそうです。

詳細は後ほどお伝えしますので、

是非、ご来場ください。

子どもにとっての「教育」とは?

子どもにとっての「教育」

子どもにとっての教育とは、いったい何なのだろう。
そんなことを、ここしばらく考えています。

理屈で考えれば、おそらく多くの人がこう言うでしょう。
――「社会に適応していくための準備の場」だと。
それは一理あるし、否定する人も少ないはずです。

でも、本当にそれだけでいいのだろうか?
ときどき、ふと疑問に思うのです。

今、私はある人のお手伝いをしています。
その人は「自由に、楽しく学べる空間――つまり塾のような場所」を立ち上げようとしています。
私はその構想に惹かれて、運営のアドバイスや、仕組みづくりの相談に乗っています。

どうやって運営するか、どう地域に認知されるか、そういった実務的な話は比較的答えが出やすい。
でも、「そもそも自由に楽しく学べる空間とは、何なのか?」と考え始めると、話は急に難しくなります。

結局のところ、それは主催者自身が手探りで見つけていくしかない。
私はそう思っています。

「社会にどう適応していくかを学ぶ」
これは教育の一つの方向性かもしれません。
けれども、そもそもその「社会」が、これからどうなっていくのかが分からないのです。

今の子どもたちが大人になる頃、
どんな社会が待っているのか――誰にも予測がつかない。
ましてやAIがますます進化し、あらゆる分野で人間を超えていく現実を目の前にすると、
「適応すればいい」という言葉には、どこか薄っぺらさを感じてしまいます。

偏差値教育が時代に合わなくなってきていることは、
多くの親が気づいています。

でも、「じゃあ、どんな教育がいいのか?」と聞かれると、誰も明確な答えを持っていない。
その結果、結局は「とりあえず偏差値の高い学校に入れておこう」となる。
分からないからこその「無難な選択」。これは決して責められることではないのですが、やっぱり少し虚しい。

そして思うのです。
「社会に適応する」という考え方そのものが、もしかしたら、もう時代に合っていないのではないかと。

この言い方では、「社会」が主体で、「人」がその枠に合わせにいく構図になってしまう。
人間が、自分の頭と心で考えて、行動する存在であるはずなのに、
「社会に合わせること」がゴールになってしまったら、本末転倒なのではないかと感じます。

AIがどんどん進化する中で、
人間だけに残された領域って何だろう?
と考えることがあります。

たぶん、0と1の間にあるもの――
つまり、数値化できない、形にならない、けれど確かに存在している世界。
感情や直感、想像力や創造力。
合理的ではないけれど、なぜか惹かれてしまうもの。
そういった曖昧さや不確かさの中に、人間らしさの「最後の砦」があるように思うのです。

そう考えると、子どもにとっての教育とは、
社会に適応することを教えるのではなく、
「社会がどうであれ、自分で考えて生きる力を育てること」ではないかと思えてきます。

それはすぐに成果が出るようなものではないし、
一つの正解があるわけでもありません。
けれど、問いを問いのままに抱え続ける力こそが、これからの時代を生きる子どもたちにとって、何より大切なのではないでしょうか。

「自由に、楽しく学べる空間」とは、
そうした問いを恐れずに抱え、
正解を急がず、自分で見つけていく場所なのかもしれません。

そして私たち大人ができることは、
子どもたちのそばで一緒に悩み、考え、問い続けること。
それこそが、教育という営みの本質なのかもしれませんね。

<参考>ちかちゃんの脳内ワチャワチャ会議