
むとうしょうへい展
8月1日~5日 DORADO Galley

むとうしょうへい展
8月1日~5日 DORADO Galley

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明日――いや、正確には今日の昼頃、多摩川でちょっとユニークな催しが行われる。
手作りのいかだに乗り、川を下るというタイムレース。
参加するのは、大人3名と子ども2名からなる「クルー」10組。
コースは、狛江市の多摩川沿い・五本松から、小田急線の和泉多摩川駅付近までの約1400メートル。
このイベントに出場するクルーのひとつを率いるのは、仙川駅近くにある「POSTO」の運営者だ。
POSTOはアートスペースであると同時に、子どもたちに自由な学びの場を提供している場所。
いかだ作りも、参加する子どもたち自身がこの場所で取り組んできたという。
これらの活動からは、「これからの教育とはどうあるべきか」という問いへの、ひとつの実践的な答えが見えてくる。
活字で学ぶのではなく、身体を使って経験すること――それが、POSTOの運営者が意図していることのようだ。
川の流れを土手から眺めるのと、実際にいかだに乗って川を下るのとでは、まったく異なる体験になる。
いかだの上から見る対岸の景色は、それまでとはまるで違って見えるはずだ。
活字から得られるのは、知識にすぎない。
しかし体験から学ぶことは、ただの知識では終わらない。
それは、生きる力の源となる「好奇心」を育ててくれる。
こうして、「学ぶこと」と「生きること」とのあいだにあった境界線が、少しずつなくなっていくのだろう。このような体験を通して、一人ひとりの子だもたちの最適化(好きな言葉じゃないが)が図られていくようなに思う。



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党結成から現在に至るまで・・
いろいろあって、突っ込みどころもあるけど
党首の演説はずば抜けて上手いね、説得力がある。
ピュアーな印象が若年層にも受けるんだろうね。
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保守政党の多くはアメリカべったりなんだけど
”日本ファースト”と言ってるように
戦後のアメリカ依存から距離を置いて
真の意味での自主独立を唱えてる。
国家主権と国民主権ってのは相反することだけど、
そこを同時に成り立つ!と主張しているところが興味深いかな。



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“佳境”なんて言ったら叱られるかな・・
三連休の中日の選挙日とは言え、投票率上がりそうだね。
増税派と減税派の対立構造になってるけど、
自民と立憲の大連立なんてことになって、増税に走っちゃうと、
国民の怒りは爆発するかもね。
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いろんな首相見てきたけど、
ここまで、醜態晒した人は初めてだね。
アートが自画像であるのと同じで
我々国民が選んだんだんから
”あの醜態”は鏡の中の自分を観ていると思うことだね、
SNS上では、他責的な罵倒が飛び交っているけど、
先ずは、わが身を正すためにも、選挙に行きましょう!

ポストで撮影した「むとう しょうへい作品」
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額のガラスに反射した室内が写り込んだ。。
ちょっと面白い画像。
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8月1日から5日まで、
ドラールギャラリーで個展があるそうです。
詳細は後ほどお伝えしますので、
是非、ご来場ください。

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子どもにとっての教育とは、いったい何なのだろう。
そんなことを、ここしばらく考えています。
理屈で考えれば、おそらく多くの人がこう言うでしょう。
――「社会に適応していくための準備の場」だと。
それは一理あるし、否定する人も少ないはずです。
でも、本当にそれだけでいいのだろうか?
ときどき、ふと疑問に思うのです。
今、私はある人のお手伝いをしています。
その人は「自由に、楽しく学べる空間――つまり塾のような場所」を立ち上げようとしています。
私はその構想に惹かれて、運営のアドバイスや、仕組みづくりの相談に乗っています。
どうやって運営するか、どう地域に認知されるか、そういった実務的な話は比較的答えが出やすい。
でも、「そもそも自由に楽しく学べる空間とは、何なのか?」と考え始めると、話は急に難しくなります。
結局のところ、それは主催者自身が手探りで見つけていくしかない。
私はそう思っています。
「社会にどう適応していくかを学ぶ」
これは教育の一つの方向性かもしれません。
けれども、そもそもその「社会」が、これからどうなっていくのかが分からないのです。
今の子どもたちが大人になる頃、
どんな社会が待っているのか――誰にも予測がつかない。
ましてやAIがますます進化し、あらゆる分野で人間を超えていく現実を目の前にすると、
「適応すればいい」という言葉には、どこか薄っぺらさを感じてしまいます。
偏差値教育が時代に合わなくなってきていることは、
多くの親が気づいています。
でも、「じゃあ、どんな教育がいいのか?」と聞かれると、誰も明確な答えを持っていない。
その結果、結局は「とりあえず偏差値の高い学校に入れておこう」となる。
分からないからこその「無難な選択」。これは決して責められることではないのですが、やっぱり少し虚しい。
そして思うのです。
「社会に適応する」という考え方そのものが、もしかしたら、もう時代に合っていないのではないかと。
この言い方では、「社会」が主体で、「人」がその枠に合わせにいく構図になってしまう。
人間が、自分の頭と心で考えて、行動する存在であるはずなのに、
「社会に合わせること」がゴールになってしまったら、本末転倒なのではないかと感じます。
AIがどんどん進化する中で、
人間だけに残された領域って何だろう?
と考えることがあります。
たぶん、0と1の間にあるもの――
つまり、数値化できない、形にならない、けれど確かに存在している世界。
感情や直感、想像力や創造力。
合理的ではないけれど、なぜか惹かれてしまうもの。
そういった曖昧さや不確かさの中に、人間らしさの「最後の砦」があるように思うのです。
そう考えると、子どもにとっての教育とは、
社会に適応することを教えるのではなく、
「社会がどうであれ、自分で考えて生きる力を育てること」ではないかと思えてきます。
それはすぐに成果が出るようなものではないし、
一つの正解があるわけでもありません。
けれど、問いを問いのままに抱え続ける力こそが、これからの時代を生きる子どもたちにとって、何より大切なのではないでしょうか。
「自由に、楽しく学べる空間」とは、
そうした問いを恐れずに抱え、
正解を急がず、自分で見つけていく場所なのかもしれません。
そして私たち大人ができることは、
子どもたちのそばで一緒に悩み、考え、問い続けること。
それこそが、教育という営みの本質なのかもしれませんね。
<参考>ちかちゃんの脳内ワチャワチャ会議
:
エスビョルン・スヴェンソン:ジャズ界の革新者


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エレガントであるとか品性があれば・・
どんな画像であろうと「それでよし!」と思ってますよ。