長い旅路を終えた者が、自らの歩みを振り返る時の、あの深い沈黙に似ている 晩秋

晩秋の空気には、どこか人生の終わりをそっと思い起こさせるものがある。木々が葉を落とす姿は、決して劇的ではない。むしろ音もなく、ひとつ、またひとつと、自然の摂理に身を委ねるように降り積もっていく。その静けさは、長い旅路を終えた者が、自らの歩みを振り返る時の、あの深い沈黙に似ている。

夕暮れ時、光が弱まりはじめると、世界は一瞬だけやわらかくなる。色彩は重たく沈み、輪郭は溶けあい、すべてが静かに幕を引く準備をしているかのようだ。その光景に触れていると、人生の黄昏とは、必ずしも悲嘆に満ちたものではなく、むしろ、長い時間を受け止めるための穏やかな場所なのだと気付かされる。

晩秋の風に吹かれていると、自分の内側にも「手放す」という感覚が芽生える。若い頃には強く握りしめていた希望や焦燥や野心が、落葉のようにひらりとほどけていく。そこにあるのは喪失ではなく、軽やかさだ。人生の終末とは、すべてを抱えることをやめ、必要なものだけを胸に残していく過程なのかもしれない。

そして、晩秋の冷たさには、どこか不思議なぬくもりがある。確かに風は冷たく、夜は早く訪れる。それでも、木々の幹に残るわずかな陽の温度や、家々の窓に灯る小さな光を見つめていると、静かだが確かな希望を感じる。

人生の終わりもまた、こうした晩秋のように、静寂の中にひそかな光を宿しているのだろう。すべてが落ち着き、余白だけが残ったとき、ようやく人は、自分の歩んできた道の美しさに気付くのかもしれない。

晩秋

薄暮の風が
かすかな金色の粉を散らすように
落葉を撫でてゆく。

木々はその肩をすぼめ、
枝に残る最後の光の滴を
そっと宙へと返す。

遠くで小川が
くすぐるような笑い声をたて、
その上を、夕陽が
赤い絵具をひと刷けしてゆく。

ああ、晩秋よ、
あなたは季節の終わりではなく、
ひそやかな始まりだ。

沈む色は、やがて来る白を迎えるための
静かな息継ぎ。
その気配に耳をすませば、
胸の奥で、小さな灯が
またひとつ、やさしく明るむ。

自然に身を委ねる

人が衣服を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿で大自然の中に身を置くとき、それは単なる物理的な裸以上の意味を持つ。そこには、人間が長い歴史の中で積み重ねてきた文化や社会的規範からの解放、あるいは「本来の自分」に立ち返る試みがある。

私たちは文明の中で生きるうちに、社会的な役割を纏い、自己を規定する無数の「衣」を身につけている。職業、肩書き、家族の期待、道徳、ルール、しつけ……。こうしたものは、私たちを守る鎧であると同時に、時に重圧となり、自由を奪う拘束具にもなりうる。では、それらをすべて脱ぎ捨てたとき、私たちはどうなるのか?

森の中で、風に肌を撫でられるとき。海辺で、波に全身を包まれるとき。山の頂で、太陽の光が直接肌に降り注ぐとき。そこにあるのは、純粋な「生」そのものの感覚である。温度、湿度、風、光、香り——五感が研ぎ澄まされ、まるで生まれたてのように、世界をありのままに受け取る。

これは単なる「裸」ではない。人間が本来持っていたはずの感受性や生命力を取り戻し、身体と自然が溶け合う「解放」の瞬間なのだ。人が裸になることは、文明からの逃避ではなく、文明に覆い隠されていた「本当の自分」を思い出す行為でもある。

大地の上に立ち、樹々のささやきを聴きながら深呼吸するとき、自分が地球の一部であることを強烈に実感する。人間が作ったルールや価値観とは無関係に、ただ「ここにいる」という確信が生まれる。それは「解放」であり、同時に「帰還」でもあるのだ。

かつて、古代の人々は儀式や祭礼の中で「裸」を神聖なものとして扱った。衣を脱ぐことは、単なる羞恥を超え、魂の再生や新たな始まりを意味した。それは、現代に生きる私たちにとっても変わらない。

裸になり、自然に身を委ねること。それは、自分が作り上げた枠を超え、純粋な生命として存在するための第一歩なのかもしれない。解放とは、自由になることではない。余計なものを手放し、世界と一体になることなのだ。

フォトエッセイ「私をそのまま撮って・・」

フォトエッセイ「裸の身体はただの被写体ではなかった」

フォトエッセイ 「あなたは撮るだけでいい。私が動く」

フォトエッセイ 「ないものねだりをいつまでするんだい?」

フォトエッセイ 「孤独の果てに待つもの」

フォトエッセイ 「復讐は終わった」

フォトエッセイ 「華やぐ宵に、香のしずく」

フォトエッセイ「木漏れ日」

フォトエッセイ 「日差しの中に身を任せた」

フォトエッセイ 「抑えきれない妖艶さと崩壊の兆し」

フォトエッセイ 「縄の束縛と自由の狭間にある想い」

フォトエッセイ 「なぜ私たちはここにいるのだろう?」

フォトエッセイ「月光がセーヌを銀色に染めていた」

フォトエッセイ 「夜の静けさの中で、私たちは触れ合った」

フォトエッセイ 「恥ずかしいです・・姿を見られるのが怖いです」

フォトエッセイ 「奪うことのできない永遠の悦び」

フォトエッセイ「これまでの人生を映し出すキャンバス」

フォトエッセイ 「エルロアという少女」

フォトエッセイ「過去と未来を繋ぐ、唯一無二の光」

フォトエッセイ “自分を愛するための道具”

フォトエッセイ「豊満な体を惜しげもなく晒し」

フォトエッセイ “これが私なの?”

フォトエッセイ “君は永遠だ。そして、私はそうではない。”

フォトエッセイ 「吉原に咲き、儚く散った花魁」

フォトエッセイ 「遊郭に入ったのは十七の春だった」

フォトエッセイ「祇園の路地奥 四季ノ華」

フォトエッセイ 「異世界への入り口 祇園の夜」

フォトエッセイ 「きっとただの幻。私を探さないで」

フォトエッセイ「すべてが一夜にして彼女の手の中からこぼれ落ちた」

フォトエッセイ 「心の深い場所に刻まれたもの」

フォトエッセイ 「あるがまま」を生きること

フォトエッセイ 「これが私なの?」鏡の前で身を晒した・・

フォトエッセイ Lilith Noir

フォトエッセイ「ひっそり立つ ヌードモデル」

フォトエッセイ「性的衝動」

フォトエッセイ 性的趣向の変容する根源的問いに答える

フォトエッセイ「鏡の奥に潜むもの」

フォトエッセイ「私をそのまま撮って・・」

変態の美学:マゾヒズム 後ろ手に縛られ

普通の写真家さんと(私が)根本的に違うところは、ポートレイトの場合、アングル内に巧み収めるのではなく、”収まり切れない”画像にしたいのです。 上手いかどうかはどうでもよく、視覚的に満足できるか、楽しめるか・・が問題なのです。

変態の美学:マゾヒズム”噓つきの遺伝子”

syuppo 作品の神髄ここに見る「「傑作」が生まれるとき」

「傑作」が生まれるとき、それは必ずしも完璧な構図や美しい光の中にあるとは限らない。むしろ、思いがけない表情、ふとした動き、計算外のタイミングの中にこそ、本物の「生」が写り込む。人間の本質、自然の厳しさ、都市の鼓動――その一端を切り取れたとき、写真はただの記録から「作品」へと変わる。

こんな理不尽なことがありますかね?

今の学校教育の現場では・・

個性的であることの重要性を説いてるし、

個性を育むことを実践しようとしてる。

じゃ、社会に出たら何を求められるか?といえば

たくさんの歯車が嚙み合って社会が出来てるわけで

個性的な人がそこに入り込むと、歯歯車が噛み合わなくなって

会社(社会)は、機能不全に陥ってしまうわけです。

そこで、歯車に噛み合うような人に成れ!って

強制されるわけですね。

じゃないと、給料やらないよ・・

食っていけないよ・・と脅されるわけです。

‥こんな理不尽なことがありますかね?

学校で習ったことと真逆なことを強いられます。